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松見 由美子

最後の・・・ 2017年6月28日号

41文の41号文


 おばあちゃんが亡くなる前日、なにげなく、病室の窓の外を見ていた。外はとてもいい天気で青い澄んだ空と白い雲が見えた。窓枠ぎりぎりのところにアイスアリーナの丸い屋根が見えた。屋根はきれいな黄緑色だった。携帯を取り出して写真を撮った。


「カシャッ!」


想像以上に大きな音がでて、思わずおばあちゃんの顔を見る。よく眠っていた。ほんとうによく眠っていた。


 いつもはウトウトしていても私の姿を見ると目を覚まし、アイスクリームを食べた。


 「おいしぃ…、ああ、ごくらく、ごくらく…」


 でも、この日は私の顔を見てもなかなか目を覚まさなかった。


 「アイス、食べようか?」


 ベッドを起こし、大好きなアイスクリームを口に運んでも、目はつぶったまま。小さなスプーンで三くちだけ、またすぐに眠ってしまう。昼食にも手をつけず、たまに目を開けると、


 「ありがと、ありがと、お世話になるねぇ…」


そういってまた寝息をたてる。


 「朝、お注射をしたんですよ。よく眠ってらっしゃいますね」


 看護師さんの声を聞きつけて、


 「ありがと、ありがと、お世話になるねぇ」


 同じ言葉をくり返し、また目を閉じる。十九時間後にいなくなるなんて、そのときはこれっぽちも知らず、所在なくイスに座り、窓の外をながめていた。


 「寝てばっかりいるもんで、今日は帰ります」


 私は洗濯物をかかえて、エレベーターに乗った。


 「ありがと、ありがと、お世話になるねぇ」


 私が聞いたおばあちゃんの最後の言葉。おばあちゃんの声。
 携帯電話の小さな画面に残された四〇五号室の窓の外。九十年生きたおばあちゃんの見た最後の景色。


 さまざまな顔が目に浮かぶ。


 とりわけ、体調を崩してからの数ヶ月、これほどおばあちゃんの顔を見て過ごした日々はなかった。新しく買ってきたパジャマを子供のように喜び、着替えのたびにそれを選び、洗濯しているというと、少し悲しい顔になった。カボチャのスープやアサリのみそ汁を飲むときの幸せそうな顔。車いすに乗って病院内を散歩。岩手山がくっきりと見えるときの輝いた顔。雲におおわれているときの寂しげな顔。


 「ひとりでトイレにも行けなくなってしまって、もう生きていなくてもいいんだろうか?」


 遠くを見るまなざしでいう。


 「孫が来てくれるとうれしいでしょ。アイスクリームを食べるとおいしいでしょ。そう感じるっていうことは、まだ死んじゃダメってことなの」


 私の言葉にニコッと笑い、コクッとうなずいた。いま思えば、最後の笑顔だったかもしれない。




   ・・・・・・・・



妄想のサボテン 2017年6月20日号

41文の40号文


 「おっきくなった!
    ぜったい、おっきくなった!」


 私がブツブツいっているのは、サボテンのことである。サボテンといっても、小指の第一関節程度の小さいサボテンで、直径四センチほどの茶色い植木鉢にちょこんと立っている。ただ、かわいそうなのはきれいな砂が接着剤で固められていること。逆さにふっても何ひとつ、ソヨともうごかない。


 先日、納戸の片付けをしていたら、息子が友人の結婚式に出席したときの引き出物がでてきた。「寿」と書かれた白い大きな紙袋の片隅にサボテンは忘れられていた。小さな箱に入れられ、セロファンに包まれ、ピンクのリボンをかけられて、ほぼ窒息状態で発見された。息子が結婚式に出席したのは去年の十二月だったから、もう半年たっている。


……幸せをよぶミニサボテン
    あなたのそばに置いて
      可愛がってください……


と、小箱に老眼鏡でも判読しがたいほど細かい字で書いてある。


 セロファンの包みから出し、 手のひらにのせ、これはやっぱり不燃ゴミかいなぁ、そう思いつつサボテンをつついてみた。


 チクッ!! 


けっこう力強いサボテンの自己主張。私は可燃ゴミにしろ不燃ゴミにしろ、捨てるのをやめにした。



 それからしばらくの間、水をやりつつ風通しのいい窓辺に置いておいた。そしたら今まで縮んでいたイボイボが、心なしか大きくなったような気がする。明るい窓の外をバックに、小さな小さなサボテンのシルエットは、手足を思いっきりひろげて伸びをしているように見える。おまけに、頭のてっぺんのトゲが少し赤く色づいて立派になってきたのが、ツンツンとした髪の毛に見える。


 今では接着剤で固められた根 元のほうは大きくなりようがないらしく、頭のほうがプクッとふくらんできた。右側に少し傾き、いや、植木鉢を半回転させれば左側、だいたいにおいて正面はどこだ?


 いずれにしても太陽の光に向かって伸びているにちがいない。日射しが差し込むことのない北向きの窓辺で、小指の先から親指の先、こぶしの大きさから腕の長さ、ドンドン伸びてふくらんで、昔見た西部劇「拳銃無宿」「荒野の七人」、カウボーイの乗った馬が荒野を駆けぬけるとき、必ず手前にあった人型のサボテン、メキシコ国境に悪人が逃げてゆくときに必ず背景にあった大きなサボテン、接着剤で固めた砂なんかブチ壊し植木鉢なんかメリメリいわせ呼び込むべき「幸せ」なんぞ知ったことかトゲなんぞクギのようであちこちにカバンとか掛けられて……


 チクッ!


「イテッ!!」


 指にトゲがひっかかってとれない。サボテンが笑った。



振るな、天秤棒! 2017年6月6日号

41文の39号文


 なんか最近、ひどく気になることがある。「人生を棒に振る」という言い方。この「棒」とはいったい何なのか? それも「棒を振る」ではなく「棒に振る」とはどういう状況か? 


棒に振る
 それまでの努力や苦心をすべて無駄にすること
 「棒手振(ぼてふり)」と呼ばれる行商人がその語源。

①棒手振とは店を構えることができず、天秤棒をかついで売り歩いていた人。棒手振はどんなにいい商品を扱っても、安く買いたたかれて繁盛しなかった。そのため店を構えることができず、一生、天秤棒を振ることになってしまった。

②棒手振は天秤棒をかついで青物や魚を売り歩くことで、すべてを売り尽くすことが基本。ゆえに「売り尽くす」ことが「すべてなくなる」という意味になったと考えられる。

 ①と②ではだいぶ意味がちがうが、「棒」はいずれも「天秤棒」のことらしい。これで少しはホッとした次第。


 いつも慣れ親しんでいる日本語も、ちょっと引いてみると、理解しがたいものが多々ある。


あんぽんたん
  あんぽん?たん?


てんてこまい
  てんてこ舞うのか?


のっぴきならない
  のっぴき? 退(の)く、引く?


にっちもさっちも
  私の年代ではどうしても「ブルドック!」と続けたくなる
  はるか昔、フォーリーブスが歌ってたのだ


つんつるてん
  つんつるって、いい感じ


ちゃらんぽらん
  ほんとにいい加減な雰囲気がでている


根ほり葉ほり
  「根掘り」はわかるが、「葉掘り」は理解不能


しめしめ
  素晴らしき擬態語

 ちょっと思いつくだけでもこれだけあるのに、調べてみると、出てくる出てくる‥‥。
のんべんだらりん・おっちょこちょい・すっとこどっこい・てんこ盛り・いけしゃあしゃあ・てんやわんや・けんけんがくがく・どしどし・あっけらかん・どっこいどっこい‥‥。


 ちなみに、悪事からぬけだすことを「足を洗う」というが、これは仏教からきている。昔、インドの修行僧が一日の托鉢を終え、寺に入る前に足を洗い清めたことに由来する。つまり俗世間の穢れを洗い流すという一種の宗教行為だったのだ。


 一方、悪の道に入ることは「手を染める」という。入るときは「手」出るときは「足」。わかったようなわからぬような。


 いやね、こういった語句、慣用句、ことわざ、すべてに語源があり、エピソードがあり、長い歴史があると思うと、ほんとに胸が熱くなるわ。


 それにしても最近の言葉の軽さ、なんとかしてほしい。


中国トイレ事情 2017年2月16日号

41文の38号文


 中国は人口の割に、圧倒的にトイレが少ない。とくに女子トイレが。


 中国のトイレはほとんどが和式(失礼、中国式というのか)で、西洋式はホテル以外にはない。中国式のトイレは日本と同じにしゃがみ込むものだが、日本のように「金かくし」がない。


 したがって、どちらが前なのか皆目見当がつかない。まるで「ない」ばかりの語尾が続くが、本当にないものばかりなのだ。トイレットペーパーはホテル以外、どこにもない。


 このことは旅行会社から事前にいわれていたので、私たちはつねにポケットティッシュを持ち歩く。トイレのドアの内鍵がかからない。内鍵は、あるにはあるのだが、ほとんどがこわれているので、ないに等しい。もっとも、観光地によってはドアすらもこわれてないところもあるが。


 そして、水が出ない。出ることは出るが、トイレットペーパーを流すだけの水量がない。ホントにこれで水洗か? そう文句のひとつもいいたくなるのだが、どこに行っても、一応は水洗なのである。


 上海の空港で、はじめて中国のトイレに入ったときは途方にくれた。金かくしのない瀬戸の便器は、果たしてどちらを向いていいものやら……。けれども、ドアの外の長い行列を思うと、そうそう思案をしているヒマはない。


 ままよ、とばかり用をすませ水を流すが、これがまた勢いがない。ペーパーは流れず、むなしくユラユラとただようのみ。あせればあせるほど水量が少なくなっていくような気がする。ため息をつき、額の冷や汗をぬぐい、旅の恥はかき捨てとばかり、ふり返りもせずにトイレから逃げてきたのだった。


 中国国内線の飛行機でも事情は同じである。形態は日本のものと変わらず西洋式であるが、いかんせん水量が少ない。私がはいったとき、すでにペーパーがただよっていた。おそるおそる水を流してみたが、状況はまったく改善されない。私が使用したことにより、状況は悪化の一途をたどる。


 仕方なく、スチュワーデスさんに身振り手振りで助けを求めた。スチュワーデスさんは愛想が悪いものの(中国国内線のスチュワーデスさんたちは、まるで不機嫌な女王様のようにとても愛想が悪いのだが)、慣れているとみえて、すぐにゴム手袋をしてトイレへはいっていった。


 観光地のトイレは、ドアがこわれてなくなっているところがママある。私たちは当然、そこには並ばないが、中国の女性は、あいているのに何で使わないんだ、とばかりに次から次へと、自然にはいってゆく。ヒョウ柄の派手なシャツを着た若いオネエさんもはいってゆく。


 こうなると、長い行列をおとなしく待っている私たちがバカみたいにみえてくるのだ。それでも私たちは、目のやり場に困りながらも、トイレの天井付近をにらみつつ、辛抱強く順番を待つのだった。


 手を洗い、トイレから出てゆくとき、目のはしでヒョウ柄のオネエさんをとらえる。オネエさんは外を向いてしゃがみ込んでいた。ああ、日本とは反対に外を向くのが正式なんだ、私はようやく了解した次第。


自己を知る 2016年12月21日号

41文の37号文


 最近、「デブ」が 流行(はや)りのようだ。テレビのバラエティ番組では、「デブキャラ」と呼ばれる太った人たちが、一生懸命、食べたり、旅行したり、踊ったりしている。これなら、ウチの配偶者並びに息子たちも、芸能界で十分通用するのではないか?と思わなくもない。


 次男・八十㎏超、配偶者・九十㎏超、長男・百㎏超。階級別柔道選手権のことではない。体重である。重量税がかかるなら、ウチの破産は間違いない。なんでこんなに…と嘆くこともしばしばだが、私とて高校時代は六十五㎏超だったから、DNΑ、つまり遺伝子のなせるワザである。故にあきらめるほかない。


 三人そろうと(三人そろうことはめったにないが)、夏には室温がまちがいなく三℃はあがる。長男は、四季を通していつも汗だくである。真冬でもTシャツ一枚で汗をかいている。だから、一緒にいると、冬にはいくぶん暖かいような気がしないでもない。


 三人ゴロンと横になっていると(三人そろって横になることはめったにないが)、鴨川シーワールド(注・千葉県鴨川市にある水族館)にある「トド」の水槽である。なぜトドかというと、シャチは黒と白のモノトーンで、そこはかとなく気品があるし、クジラはいくら何でも図体が大きすぎるし、亀のように重い人生を背負っているわけでもないし、イルカのように可愛くもないから。ほんとに(自慢しているわけではないが)、腹の線など、トドにそっくり。


 配偶者は近ごろ、とみに腹が出てきて、いつも腹をなでている。ものかげから配偶者が出てくるとき、普通の人なら頭とか手とかが先に見えるのだが、彼の場合は、腹から先に出てくる。一番先に小山のような腹が見え、続いて胸、その後に足先が出てきて、一番最後が頭である。  ああ…。


 太った人は「癒し系」といわれ、つねに明るく、つねに包容力にあふれ、つねにおいしそうに食べ続けなければならない。どんな悩みをかかえていようと、悩みなどこれっぽっちもないふうに装わなくてはならない。


 でも、「こんなオレでもたまには、心にすきま風が吹くのさ」的な、哀愁ただようまなざしもしなくてはいけない。デブはデブで、いろいろと苦労があるのだ。


 次男はいつも、
「『勘違いのタダのデブ』だけにはなりたくねぇ」
という。


 太っているにもかかわらず、それを無視し、似合わぬ洋服を着たり、さもモテるふうに女の子を口説いたりするのが「勘違いのタダのデブ」らしい。つまり、デブにとって、「自己を知る」ということが一番大事なテーマになるのだ。そう、哲学的な思索もしなくてはならない。デブはデブで、いろいろと苦労があるのだ。


 配偶者は、長らくやめていた夜の散歩を再開し、次男はプチダイエット(何度目かの)に突入し、長男は成りゆきまかせ。



誰かがいった。
「思索するとやせるものさ」


 それは絶対ウソだ。



きみどり色の虎 2016年11月30日号

41文の36号文


 タンスの引き出しをかき回していたら、奥底から赤い袋に入ったスカーフがでてきた。真っ白の地に黄緑色のトラと、それを囲むように黄緑の南国の花々。


 何年かに一度、広げてはみるけれど、とてもじゃないが使うのはむずかしい。試しに、肩にかけて鏡にうつしてみるが、青白い顔色がいっそう映えるだけ。額に入れて壁掛けにでもしようか、そう思いながら丁寧にたたむのも何年かに一度のこと。袋の赤い色も、どことなくくすんできた。けれども中身のスカーフは、真っ白い部分は黄ばみもせず、黄緑色の部分は派手な色のまま、もう、三十五年もたってしまった。


 私が二十歳の学生だった頃。父がビルマ(現・ミャンマー)へ出かけた。戦争中、父はビルマ戦線に従軍し、母の写真を胸に、命からがら帰ってきたという。母の写真…という部分は、父が酔ったときにしか話さなかったので、真偽のほどは定かではない。そのビルマ戦線の戦友たちと慰霊の旅に出かけたのだ。あちこちでお経をあげるために法衣と小さな鐘(かね)も持っていったらしい。


 東京にいた私のもとへ、母から連絡が入った。


 「お父さんがビルマに行くので、羽田空港まで見送りに行ってちょうだい。そのとき、あなたに編んだセーターを持っていってもらうから、空港で会ったときに受け取ってね……」


 母の声も心なしか興奮気味だったような気がする。


 当時、海外旅行に出かける人など、私のまわりには皆無だった。もちろん、誰も飛行機など乗ったこともないし、実物の飛行機すら見たこともない。羽田空港なんて名前しか知らなかった。どうにか空港までの道順をおぼえ、出発当日の朝、早起きをして、やっとの思いで羽田空港にたどり着いた。


 空港にたどり着いたはいいが、駅のホームとワケがちがう。出発時間は聞いていたが、どこに行けばその飛行機を見つけられるのか、父たちはどこにいるのか……。ただただウロウロし、最後にはもうあきらめて、飛び立つ飛行機の見えるデッキで、適当に、


 「あの飛行機にしとこ。 ハイ、いってらっしゃーい」
一応、見送りの気分だけ味わって帰ってきたのだった。


 ようやくセーターを受け取ったのは、ビルマから帰国し、上野駅から家に帰る父を見送るときだった。トランクからセーターを引っ張りだし、


「これはビルマに行ったセーターだからな」


心して着るように、とでもいいたげに、うやうやしく私に手渡した。


 南国の熱気が残っているみたいに、セーターは少し暖かい。以来、そのセーターを、私は心ひそかに「ビルマのセーター」と呼んでいた。


 その時の父のおみやげが、白地に黄緑トラの派手なスカーフ。
「飛行機のなかで買ったんだ。美人のスチュワーデスさんが選んでくれたんだ。いいだろう」


 唯一無二の父の形見だが、こりゃ、やっぱり使えないや、ね、父ちゃん……。  


もんた 2016年11月5日号

41文の35号文


 あれは台風が近づいた夜。こわれた雨どいからバタバタと、屋根を叩くような雨音のする夜だった。


 深夜、雨音とともにどこからか「ミャーオ、ミャーオ…」切ない猫の声がする。こんな雨の夜に恋人探しか…、猫もご苦労さんなこった。気にもかけずにそのまま眠った。


 翌朝、裏木戸を開けたとき、「ミャオン…ミャオン…」と、かすかな声が聞こえてくる。どこにいるのか、出窓の下をのぞいてみるが、アジサイやギボウシュが繁る陰には何も見えない。その手前には、昔の大屋根の鬼瓦が三個、処分しきれずに置いてある。その鬼瓦と縁の下の隙間に、小さな、小さな子猫がいた。


 おいで、おいで…、右手をヒラヒラしてみたところで、怖がって逆に後ずさりばかり。仕方なく、蜘蛛の巣とホコリだらけの鬼瓦の裏に手を突っ込む。手探りで子猫の首根っこをつまみ、引っぱり出す。びっくりほど軽かった。


 やせこけて、長いヒゲにも眉毛にも蜘蛛の巣が引っかかり、小さな鼻先は泥だらけ。お腹の白い毛はホコリ色。首根っこをつままれた子猫は、なすすべもなくブルブルと震えている。


 あらま…。
と、とりあえず寝床、え、えさ?


 菓子箱に古いバスタオルを敷き、私の知っている代表的な猫マンマ、ご飯にかつお節、そして牛乳。他のノラ猫から見えにくい庭の片隅に、居場所を設営した。


 かつお節ご飯は、口元に持ってゆくとほんの少しだけ食べた。「ミャー…」ひと声発して、バスタオルにまるくなった。


 しばらくしてからのぞいてみると、子猫の姿が見えない。ギボウシュの葉かげで用を足していた。小さな前足で一生懸命穴を掘り、小さな前足で一生懸命穴を埋める。真剣な顔で何度も。えさの匂いを嗅ぎつけた大きなノラ猫が木戸からのぞいている。菓子箱ごと持ち上げて、裏玄関に入れた。ああ、お前は一体どこから来たんだ? お前の親はどこにいったんだ?


 さてどうしたものか。


 連れ合いは、柱が傷つくとか、ふすまが破れるとかで、猫をあまり好まない。かといって、このまま放っておくわけにもいかず、誰かもらってくれる人をさがすべく、猫好きの友人やNPOの団体に連絡してみた。が、どこも、即決する話ではない。


 その日の夜、嫌がる子猫をたらいにぶち込み、私のシャンプーで洗ってやった。ヴィダルサスーンのいい匂いをした子猫は、片手に乗るほど貧弱だった。


 あれから子猫は倍以上にふくれあがり、我が物顔にそこいら辺を走り回っている。名前も子どもが「もんた」とつけた。連れ合いも今では「お父さんと遊ぼ」と、子猫に相手をしてもらっている。


 「私はお前の命に恩人。猫の恩返しは大歓迎さ」
ことあるごとに子猫にいい聞かせる。もんたはぐちゃぐちゃっと恩人の手をかじって、プイッと逃げていっちまった…。


 2016年10月5日号

41文の34号文


 アーケードの商店街にある小さな洋品店を出たとき、雨が降りだした。ザァーっと音をたてて降りだした。はんぱな降り方ではない。「滝のような」とか、「バケツをひっくり返したような」とか、あるいは「天が裂けた」とかいうような表現が使われる降り方なのだ。


 傘は持っていたし、アーケードの屋根もあるので歩きはじめたのだが、前に進めない。道路にたたきつけられた雨はしぶきになってはね返り、歩道はたちまち水浸しになる。店とアーケードのすき間からは、滝のように雨が流れ落ちる。どこの店でも、店員さんたちがあわてふためいて歩道に並べていた商品を片づける。私は歩くのをやめ、店の入り口で雨宿りをした。アーケードの商店街なのに、傘をさしながら。


 いつだったか、雨がこちらに向かってくるのをみたことがある。郊外の小さなダム湖だった。こちらの岸は陽ざしが降りそそぎ、さほど遠くない向こう岸の空は雲がかかっていた。突然、向こう岸が灰色の紗におおわれた。ゆらゆらと灰色のカーテンがゆれているようだ。そして、ぽたぽたと、向こう岸の湖面に雨つぶが落ちはじめる。雨つぶは湖面を波立て、一斉にこちらへ向かってくる。


 まるで幾千、幾万の雨つぶたちが全力疾走をしているようだ。あっ、雨……、思う間もなく、雨はこちら側に到着し、手や顔に冷たい水滴を感じ、すぐに濡れてゆく。この間、わずかに数十秒だった。雨つぶの全力疾走はどこまで行ったのか? 後ろをふり向いてみたが、そこいら辺じゅう雨だらけ、雨つぶの後ろ姿さえみえなかった。


 アーケードも傘も、ちっとも役にたたない。サンダルの素足はすでにグショグショだった。ジーンズを膝まで濡らした若いカップルは、かえって気持ちよさそうに傘もささず歩いてゆく。アーケードが途切れる交差点は、青信号でも誰一人渡らない。ほんの数メートルの距離だが、この雨の中を走って渡ったとしても、間違いなくシンまで濡れる。それをしてみたい気もするが、心身ともにそう若くはない。交差点付近のアーケードには傘をさした人が増える。ある人は空をみ、ある人は地面をみる。


 若い男の子が携帯電話をかけている。雨音にかき消されそうな小さな声で話している。少し暗い顔をして。私は雨をみていた。こんなひどい土砂降りでも、携帯電話の電波は雨をぬって飛んでゆくのだろうか? 彼の電話は雨の中を相手まで飛び、相手から雨の中を飛んでくる。きっと、湿気をおびて濡れているのかもしれない。


 私も携帯電話を取り出して、どこかへ電話をしたくなった。相手の声が湿っているか、確かめてみたい気がする。でも、こんな雨の日は、きっと明るい話はできないかもしれない。


 今年の夏は雨ばかりだった。「小雨」「霧雨」「小糠雨(こぬかあめ)」「豪雨」「雷雨」「暴風雨」、あらゆる雨が降った。携帯電話で話をする若者たちも、別れ話が多かったかもしれない。「涙雨」も多かったから。 


恩返し 2016年9月26日号

41文の33号文


 彼岸のあと、お墓の花を片づける。ビニール袋いっぱいに、しおれた花をギューギュー押し込む。そんな袋を一輪車に三つ四つと積み上げ、ゴトゴトと運ぶ。そのとき、ビニール袋の中で何かが動いた。目をこらすと、袋の一番底、花と花のすき間で何かがパタパタと動いている。小さな蛾、だった。


 あれ、ま…、見ないふりをしてそのまま進もうとしたが、目の前で動いているのはどうも気になる。一番底だし、蛾を外に出すには、袋を破るしかない。パタパタしているところに指をあてると、まるで、


 「タスケテ、タスケテ…」


 というように、袋の中から指にツンツンとあたる。ったくぅ、仕方ないなぁ、ブツブツいいながら手で引っぱって穴をあけようとする。ところが「薄くてじょうぶ、穴のあきにくいビニール袋」といううたい文句の袋だけあって、花を押し込むとすぐ「プチッ」と穴があくくせに、手であけようとするとなかなかあかない。「ウ〜〜ン」、苦労して穴があいたとたん、御礼の言葉もあるわけない、蛾はパタパタといなくなってしまった。


 しばらくのち、別の場所で一輪車にビニール袋を積み上げ、ゴトゴト運んでいると、私のまわりを何かがただよう。目をこらすと小さな蛾だった。ヒラヒラ、パタパタ、私の動きにあわせて飛んでいる。


 おや、ま…、さっきと同じ蛾かどうかは、目印をつけていないのでわからない。せっかくだから、さっき助けた蛾が御礼に来たんだ、そう思ったほうが世のなか少し楽しい。なんとなく浦島太郎の気持ちになって、


 「むかしぃ、むかしぃ、うらしまわぁ、たすけたカメにつれられてぇ…」
と、浦島太郎の歌をうたいながら、蛾といっしょに一輪車を押していった。


 その夜…。
車に乗ろうとして、ドアを開けたとたん、車の中からだろうか、でっかい蜂が飛んできた。まるでウォルトディズニーの漫画のように、目を三角にしてブンブンこちらに迫ってくる。


 「ギャーッ、タスケテ!」


 手で払いのけながらも、けっこう冷静に、今流行のスズメ蜂か? いや、腹の部分がプックリ、ゴロンとしているので熊ン蜂か? とかなんとか観察もしている。どこかの隅に追いつめられ、ウォルトディズニーの漫画蜂、牙をむきだしてニヤリと笑う。


 これまでか…、そう観念したときに、パタパタ、ヒラヒラ、一匹の蛾があらわれた。蛾は私の目の前で、敢然と蜂に立ち向かう。


 ブンブン、パタパタ、
    ヒラヒラ、ブンブン…。


 小さな蛾は、大きな蜂にかなうべくもなく、あえなくその毒針に刺され、地面に落ち、パタパタと最後の羽ばたきをして力つきた。蜂はいつの間にかいなくなり、私はボーゼンと蛾を見つめる…。


 というところで目が覚めた。むろん、夢の話である。知りあいが蜂に刺されたことが夢の原因。だがそれよりも、助けた蛾の「恩返し」を、心のどこかで期待していた自分が、かなりなところ恥ずかしい!

阿羅漢サバイバル 2016年9月8日号

41文の32号文


 私、近々、還暦になるの!


 満で五十九歳だから、世間でいう還暦!
 あらま・やだぁ・うそぉ・そんなぁ・絶対、違うはずだ(註・いずれも語句の末尾に「!」がつく)等々、感嘆符抜きには言い尽くせぬ思いが交錯する。


 現代語で還暦前後の年代を「アラカン」という。アラウンド還暦(還暦前後)、略して「アラカン」。仏教用語でいうところの「阿羅漢(あらかん)」(いわゆる羅漢さん)とはまったくなんの関係もないのであしからず。


 最近、見事なまでの「ウッカリ」が多いこと多いこと。先日も来客にコーヒーをだそうとしていたとき。コーヒーカップを暖めるため魔法瓶からカップにお湯を注ぐ。一個目は大丈夫、二個目、カップの受け皿にお湯をジャーッ! あれっ? と気づいたのは受け皿からお湯があふれてからだった。あふれたお湯を拭き取るときの情けない気持ちたるやもう‥。連れあいが「オレ、やべぇ‥、眼鏡したまま顔洗いそうになった‥」そういうのを、フフンとせせら笑っていた自分がなつかしい。


 姉から電話があって、盛岡に来るとのこと、ヤッホー、久しぶりだし温泉行こう、温泉! 私はさっそくインターネットでせっせと温泉宿を探しはじめる。実はこの時点で私は大事なことを忘れ果てていたのだった。


 ああでもない、こうでもない。「ワンランク上のバイキング・朝夕食付き・格安ひろびろ十畳和室」よし、これ! 三十分かけて温泉宿を探しだし、予約を入れてウキウキと部屋を出る。


 むっ‥、なんかおかしい。家中にただようウス煙。家中をおおう焦げ臭さ。
「あっ、あずき!」


 私は小豆を煮ていたのだった。ガス台に駆け寄れど、ときすでに遅し。小豆と鍋は無惨に黒色変化。それにもまして、この煙とにおい。さいわい連れあいは留守。だが、これを知られたらバリゾウゴンを受けるは明白。俄然、私は行動を開始する。


 においと煙は、扉が開いている所、すべての場所に行き渡っていた。本堂、内陣、来客用のトイレ、奥座敷、二階の寝室、風呂場。私のいた書斎だけが扉を閉めていたのでにおわなかったのだ。厳寒のなか、ありとあらゆる窓を開け、換気扇を回す。ウチワを持って各部屋を駆けずり回り、においと煙をあおぎ出す。


 まぁ、そんな努力もムダに終わり、帰宅した連れあいにはすぐにばれ、二度目の家中換気。火事になったらどうするんだ、というお叱りの言葉も至極当然のことであった。その後、台所だけは何をどうしようと、焦げ臭さが二週間続いたのである。


 ああ、今は亡きおばあちゃんに、やかんのお湯、沸かしっぱなしですよ! 大声を出していたあの頃の自分がなつかしい。


 以来、小豆を煮るときはもちろん、ガス台に火がついているときにはパソコン禁止、電話禁止、台所常駐を深く心に決めた。
 最近とみにあぶなくなってきた連れあいとともに、アラカン・サバイバル・第一部、いざ、開始ぢゃ!

人生の応援歌 2016年8月30日号

41文の31号文


♪ 幸せは歩いてこない 

 だから歩いてゆくんだね

 一日一歩三日で三歩

 三歩進んで二歩さがる

 人生はワン・ツー・パンチ

 汗かきべそかき歩こうよ
 ……


 過去に大ヒットした「三六五歩のマーチ」。先日、久々にテレビで見た。一九六八年発売というから、日本は右肩上がりのすさまじい高度経済成長期。こういうものを聞いて元気を出していたんだなぁと、シミジミした次第。ただ、考えてみるとイマイチよくわからない部分もある。


 「人生はワン・ツー・パンチ」これがよくわからない。一日一歩あゆみつつ、ワンツーパンチを繰り出すのか。人生の何に対してワンツーパンチを当てればいいのか。あとは「三歩進んで二歩さがる」タイミングがわからない。三日に一度「三歩進んで二歩さがる」のか、一週間に一度なのか、はたまた毎日「三歩進んで二歩さがる」なのか。あるいはそういう日もある、ということなのか。


 ♪ 人生勇気が必要だ

 くじけりゃ誰かが先に行く

 あとから来たのに追い越され

 泣くのがいやなら さあ歩け
 ……


 水戸黄門の主題歌。タイトルは「ああ人生に涙あり」。これも同時期の一九六九年発売。若かった私は、この歌を聞くたびに「ええやん、誰かが先に行っても…」「ええやん、追い越されても。あたしゃ、追い越されても泣かんもん」と、ヘンな関西弁でひそかに思っていたものだった。当時の日本人は本当に「歩く」ことが好きだったらしい。ちなみに「歩け歩け運動」がおきたのは一九六三年。東京オリンピック一九六四年。


 一九八〇年代のバブル期、「人生の応援歌」らしきものは見当たらない。一生懸命歩き続けて、疲れたあたりに、バブル期で浮かれてしまったらしい。


 ♪ 負けない事 投げ出さない事 逃げ出さない事 信じ抜く事

 駄目になりそうな時

 それが一番大事
 ……


 「それが大事」という歌だが、これはバブルが崩壊し始めた一九九一年の発売。一時期、テレビをつけると必ずといっていいほどこの曲が流れていた。ただし、この歌にも多少の問題点がある。「負けない事」「投げ出さない事」…大事なことが四つあげられているが「それが一番大事」って、四つのうちどれだ?


 平成の今、歩けども進まず、歩きたくとも歩けず、あるいは、歩けるがあえて歩かず、歩いた先に何があるのかと、歩き続けることの意味がアイマイになってきている。


 老若男女、皆が知っている歌といえば「千の風になって」。私はこちらの「替え歌」の方が好きだが。


  ♪ となりの〜 お墓の前で〜

  泣かないでください〜

  そこに〜 私はいません〜

  いるわけありません〜 (笑)  

昼下がり 2016年7月6日号

41文の30号文


 高速道路のとあるパーキングエリア。私は車のなかで、遅い昼食のおにぎりをモソモソ食べていた。


 右側に車が止まった。車の中から六十歳代の夫婦が降りてくる。魔法瓶とバスケットをベンチに並べ、夫らしき人が紙コップにコーヒーをいれる。それも一杯分ずつではあるが、ちゃんとしたコーヒー豆のドリップ式のもの。コーヒーにミルクと砂糖を入れ、キチンとかきまぜ、バスケットからサンドイッチを出し、口に持っていったとき、車の中から犬の鳴き声。妻らしき人はサンドイッチを放りだして車に走る。


 「あーら、ロンちゃん、ごめん、ごめん、おなかちゅいたの?」


 茶色い犬を車の中から抱きあげた。犬はあまり大きくなく、茶色の毛が長くて、身長のわりに胴が長い。地面におろされた犬ははしゃぎまわって、飼い主の足にからみつく。


 「ほーら、ロンちゃん、走っていいわよ、芝生のとこなら」


 寒くもないのに真っ赤なチョッキを着た「ロンちゃん」は、いわれたとおり「はふ、はふ、はふ、はふ」と、ベンチやシーソーのある芝生をかけまわる。


 「ロンちゃん、ほら、ローン、あまり遠くいっちゃダメでちゅからね」


 妻らしき人は、サンドイッチを両手に持って、大きな大きな声をかける。


 左側に車が止まった。車の中から三十代前半の若い夫婦が降りてくる。夫らしき人は自動販売機でジュースを買い、妻らしき人に手渡す。そのとき、車の中から子供の泣き声がした。妻らしき人はジュースを夫にほうり投げ、車に走る。


 「マイちゃん、起っきちたの。さぁ、パパからジューチュもらおうね、パパ、ジューチュちょうだいって、ね」


 抱きあげ、下におろされた子供は二歳ぐらいの女の子。この子はピンクのチョッキを着ている。「マイちゃん」は、これもまたいわれたとおり、「パパ、ジューチュ、パパ、ジューチュ」と、パパの方に走ってゆく。ジューチュを一口飲んで、「マイちゃん」は、「ロンちゃん」同様、芝生をトットコ走り始める。


 「マイちゃん、マイコ、あぶないわよ、あんまり遠くへ行かないでね」


 ジューチュを片手に、ママらしき人は大きな大きな声をかける。


 赤いチョッキの「ロンちゃん」と、ピンクのチョッキの「マイちゃん」は、はふはふトットコ、目まぐるしく、傍若無人にかけまわる。芝生のまんなかで両者ともピタリと止まり、「マイちゃん」と「ロンちゃん」はしばしにらみ合い。


 「ほーら、ロンちゃん、こんにちわでしょ、こんにちは……」


 「マイちゃん、ほーら、ワンワンよ、ナデナデして……」


 二組の夫婦とも、ベンチから身体は運ばず、声だけおくる。


 私は、二個目のおにぎりとペットボトルのお茶を持ち、「ロンちゃん」と「マイちゃん」、チョッキの色が違うだけで、どっちが犬、どっちが子供か、ワケがわからなくなったのだった。この国はトンでもなく平和なのか、それとも、オロカなのか?

まぼろし 2016年6月22日号

41文の29号文


 シャレた家が建ち並ぶ郊外の住宅地。アジサイが雨にぬれる日曜の昼下がり、軽自動車がひい、ふう、みい、よ……、五台つらなってトロトロ走る。


 道の両側は桜の並木。その奥には花にかこまれたウッドデッキのある家、白い出窓にレースのカーテン、フランス人形がこっちを見ている。週に一度はウッドデッキでバーベキュー、若い奥さんはガーデニングと人形作りが趣味。家のなかには小型犬のチワワがいて、今度は大型犬のゴールデンレトリバーがほしいわ、とかなんとか夫にいう、そんな日常がすけて見えるような家並みがつづく。


 シャレた家の若い奥さんが運転する五台の軽自動車は、トロトロと走る。まるで絵にかいたような「小さな幸せ」の行進。二台が公園のある小径へ曲がってゆき、三台は一斉に大きなスーパーマーケットの駐車場に乗りいれる。


 スーパーの自動ドアが開くと、小さな花売り場。二本のバラとかすみ草、三本のガーベラにスターチース。セロファンに包まれた小さな花束は、シャレた家のシステムキッチンによく似合う。花売り場のとなりは野菜売り場、魚売り場に肉売り場、そして総菜売り場にパン売り場。どこのスーパーでも順序は同じ。そう、これが「幸せ」の並べ方。


 身の丈にあった「小さな幸せ」で何が悪いの? 家の駐車場には車が二台、夫用の大きいワゴン車、妻用の小さい軽自動車、家族が健康で、そこそこ貯金があって、年に一度、ゴールデンウィークには四泊六日でハワイに行って、子供にピアノと英語を習わせて、学校から帰ったら液体セッケンで手を洗わせて、おやつは添加物なしの手作りクッキー、お部屋はシュッシュッと「ファブリーズ」……。


 幾千幾万の「小さな幸せ」を寄せ集めかき集めても、不思議なことに、地球規模の「大きな幸せ」になりはしない。幸せは小さいまま、森のドングリのごとく、かたい殻をつけてコロコロころがる。


「ロンドンの地下鉄ってね、まるで美術館みたいなのよ」


 ロンドンの地下鉄やバッキンガム宮殿の写真を指さしながら、友人は楽しげに語った。


 「もう、一日乗り放題のチケットがクチャクチャになるぐらいあちこち乗ったわ」


 彼女がその十日後に、ロンドンの地下鉄に乗っていたら、「小さな幸せ」は一瞬にしてコッパミジン。


 一分後、大地震がくるかもしれない。こんや、夫が突然倒れるかもしれない。あす、子供が交通事故にあうかもしれない。あさって、乗った電車がひっくり返るかもしれない。永遠につづくと思いこんでいる「小さな幸せ」、悲しいまでにモロくてハカナい。


 赤、ダイダイ、黄、色あざやかなパプリカの、四分の一ずつカットされた小さなパック。百円也。四分の一ずつの「小さな幸せ」がカゴのなかで私を笑う。


しょうじき すまんかった... 2016年6月6日号

41文の28号文


 パソコンの画面に背景の写真を貼っておく。通称「壁紙」というのだが、自分の好みでキレイな風景や花や絵など、あちこちから切り取って壁紙に使うのである。


 最近私の気に入っている壁紙は上の写真。前足に顔を伏せ、身も世もないとばかりに、しんそこ謝っているように見えるネコの写真。朝、いつものようにパソコンを立ち上げ、明るい画面があらわれて、ネコが「五体投地」(?)の姿で、


「しょうじき 
    すまんかった…」


とあると、思わず心がなごみ、


「ふむ、しょうがないなぁ、
    まっ、許してやっか…」
というカンジになる。でもってそのあと必ずこう思う。


「うん? 許すってなにを? 
    許すってだれをさ?」


 トシを取るごとに、悲しいかなイライラが増してくる。
 私にだって若い頃にはそれなりの「年寄り像」というものがあった。あらゆるものを静かに受け入れ、動ずることなく、怖(おそ)れるものはなにひとつなく、泰然として穏やかに、微笑み絶やすことなく、怒(いか)るときは私憤によらず公憤によれ、と、まぁ、思ったりしたこともあった。


 ところがいざ、「年寄り予備軍」なってみると、とんでもない。「動ずることなく」というのだけは当たっている。動きたくとも身体が思うように動かないから。「静かに受け入れる」なんぞ、ムリ、ムリ。現実なんか絶対受け入れたくない。


 「怖れるものはなにもない」どころか、トシを取れば取るほどこわいものだらけ。病気、ケガ、お金、人間関係…、減るどころか増えてゆく。「泰然として穏やかに、微笑み絶やすことなく」こんな人みたことない。


 燃えさかるボンノーのイライラを抑えこんで、笑っていられる人は超人的である。いや、人間ではないかもしれない。「怒るときは私憤よらず公憤によれ」ふっ、私は怒るとき、すべて私憤しかない。大体において、私憤と公憤の区別がつかない。怒ることの原因のほとんどは自分の思うとおりにならないことだから。


 実際のところ、ネコが頭をさげ「しょうじき、すまんかった…」と謝って済むことではないのだ。ネコに謝ってもらうことではない。謝るべきは私自身で、私自身が私に許しを請わなければならない。こんなトシの取り方しかできない私を許して!と。


「しょうじき
    すまんかった…」
ネコのかわりに私がまるまって謝る壁紙を想像し、そんなの金輪際見たくないとゾッとする今日この頃。


紙面、埋める、一応 2016年5月25日号

41文の27号文


 はい、はい、げんこう、原稿。
「オレ、今月は紙面書く余裕ないからな。わかってるな!」
ハイ、ハイ、わかってるって、書けばいいんでしょ、書けば…。
というわけで、今月もまた「原稿書けないネタ」でお茶をにごそうと思ったが、それも思いつかない。そこで、インターネットからみつけた「怖い話」をふたつ。

〈その壱〉

 ぼくが学生時代に所属していたサークルの部室でのこと。皆で霊感があるとか、虫の知らせとか予感とか、たわいもない話をしていた。隣で黙ってぼくたちの話を聞いていた一人の後輩が、めずらしく真面目な顔でこんなことを言いだした。


後輩「そういうことってあるんですよ。じつは俺もそうらしくて‥‥」


ぼく「ほぉ‥‥」


後輩「あの、先輩、最近何か変わったことありませんでした?」


ぼく「いや、別に‥‥」


後輩「‥‥いや、それならいいんですけど‥‥」


ぼく「‥‥なんで?」


後輩「あの、黙っていて何かあったら困るので言うんですけど、先輩、知り合いに坊さんいませんか?」


ぼく「いや、いないよ」


後輩「じゃぁ、知り合いでなくてもいいから、一度お祓いをしてもらったほうがいいですよ‥‥」


ぼく「‥‥なんで?」


後輩「その‥‥、俺には見えるんです‥‥」


ぼく「‥‥な、なにが?」


後輩「先輩の足のところに‥‥こ、こどもが‥‥」


ぼく「‥‥」


後輩「お祓いしてもらったほうがいいです」


ぼく「‥‥」


後輩「俺、その子の名前までわかるんですよ」


ぼく「‥‥名前?」


後輩「はい‥‥」


ぼく「‥‥な、なんていう?」


後輩「‥‥」


ぼく「‥‥」


後輩「ひ‥‥」


ぼく「‥‥ひ?」


後輩「ひ、ひ‥‥ひざ小僧」



〈その弐〉

ホラー映画を見ていたんだが、あまりにも怖すぎて、本当に怨霊が出てきそうだったので、テレビの音量を下げようとリモコンのボタンを押したら、画面に


「オンリョウ」


ぎゃぁぁぁぁぁぁあああ!!!


 と、まぁ、盗作させてもらいました。いい歳をしたオバさんがひとり、パソコンの画面に向かって「く、く、くっ…」腹をゆらして笑っている姿を想像してください。皆さん、きっとドン引きすること請け合いです。
 今回はこれでおしまい。


思い出の「ブロンド一家」 2016年5月12日号

41文の26号文


 ずーっと昔。テレビには畳にくい込む四本の細い足があって、画面の角が丸くなっていた、そんな白黒放送の時代。あるアメリカ人家族の日常生活を映し出した番組があった。


 大きな家、芝生の庭、ふかふかのソファ、暖炉の上に置かれた家族の写真…。大きな冷蔵庫から、大きな紙パックの牛乳を取り出し、フワフワのワンピースを着たブロンドの若いママが、これまたブロンドの可愛い息子に手渡す。幼い私はこの巨大な冷凍庫つき冷蔵庫と紙パックの牛乳にいたく感動した。


 家の冷蔵庫には冷凍庫などあるわけない。小さな製氷皿がおいてある最上部は、いつも霜がいっぱいくっついてアイスを入れるすき間もない。背の低い冷蔵庫の上には、デパートの包装紙を敷いて、醤油差しやら空き箱やら小麦粉の袋やらがチマチマと置いてあった。


 牛乳はもちろん一合入りの牛乳ビン。当時のブランドは「岩手牛乳」。工場の排水で中津川の岸辺が白く濁っていたさ。そのテレビを見たあと、牛乳ビンのフタを爪の先でクックッと開けながら、紙パックの牛乳はどんな味だろうと、思ったものだ。


 大きな車から大きな紙袋を何個も取り出す買い物帰りのブロンド一家。ハンサムなブロンドのパパは両腕に紙袋をかかえ、その紙袋から、フランスパンが見えている。


 幼い私は、この紙袋とフランスパンにもいたく感動した。当時、買い物は針金に緑と黒と白色のビニールを巻いた網の目の買い物カゴを持って、毎日、近所のお店をめぐるもの。魚屋さんでお刺身を作る包丁さばきに目を見張り、八百屋さんでサクランボを一個、隠して持ってきたり、肉屋の店先にトリのシメたのがぶら下がっていたり。母親のあとをくっついて歩きながら、何か買ってもらえるのを心待ちにしていた。


 近所にスーパーができたのは、私がだいぶ大人になってからのこと。茶色の紙袋をかかえてスーパーからの帰り道、ブロンド一家に近づいたような気がして、心なしか胸を張って歩いていた。感動のフランスパンを紙袋からのぞかせるのは、まだまだ先のことだが。


 「週給一万円で○○一家の豊かな生活は営まれる…」
そんなアナウスが流れた記憶があるが、「一万円」という金額は定かではない。ただ、「週給」という言葉がとてもアメリカっぽくて、これも感動していた。


 当時、教員をしていた父の月給は一万円ちょっと。母は毎日、百円札三枚をガマ口に入れて夕食の買い物に出かける。エンゲル係数六十%、まわりがみんな貧しかったから、鼻水でガビガビになった袖口の服を着て、喜々として暮らしていた昔。


 豊かな国アメリカ。こんなに豊かな人ばかり暮らしているはずはない、絶対に。暗くて貧しい部分もあるはずだ、絶対に。幼心にも裏読みが得意な私だった。それからしばらく後、豊かなアメリカの暗部を映しだしたスラム街のドキュメンタリー番組を見て、ほら、やっぱりな‥と、溜飲を下げたのだった。ほんと、昔からイヤな子供だったみたい。


老人ホーム「ほくしょうえん」 2016年4月21日号

41文の25号文


 こんなにして上向いたり、裏返ったりしながら本を読むのは何ヶ月ぶりだろうか?


 あれは確か去年の夏だったか、ギックリ腰になって動きがとれず、仕方なしに一日中本を読んでいたのは…。今回はギックリ腰でも何でもない。ただただ、陽当たりのいいリビング(りびんぐ! なんとハイカラなこの響き)にひっくり返って、眠くなったら老眼鏡をしたままだってかまわぬ、ネコの毛布を半分奪い取り、ウツラ、ウツラ…。これがまさしく「至福のひと時」。


 寺ほど「リビング」やら「キッチン」などという言葉に縁遠い建物はない。台所はあるが、キッチンはない。茶の間ないしテレビの部屋はあるが、リビングはない。「常居(じょい)」「書院」「十二畳」「物置」「衣部屋」等々、横文字の似合う部屋は寺のどこにも存在しない。ベッドのある寝室すら、ベッドルームとはいわず「二階」だったもの。


 寺に生まれ、寺に育ち、寺に嫁ぎ、実家が隣であるからして、同じ境内で過ごすこと六十有余年。それが今、市内近郊の、中古といえどあこがれの一軒家に引っ越したのだ! 


 とにかく、一軒家生活は見ること聞くこと、すべてが初めての経験ばかり。朝起きるとすぐにガラガラと、向拝(ごはい)の雨戸を開けなくともいい。何時まで寝ていたっていい。掃除だって別にしたくなければしなくっていい。インターホンが鳴っても、居留守を使えばそれでいい。でも、それができない。


 訪問者第一号は、引っ越し前の夜八時半、インターホンが突然鳴り、ビクビクと出てみたら、NHKの集金人。さすが、さすがのNHK!牛乳の宅配いかがですか?そんなときもインターホン越しに断ればいいものを、玄関の中に招じ入れてしまった。人が来たなら、必ず玄関に出る、という習性はいまだに抜けない。


 鍵をかけたら、いつだって外出していい。ネコを留守番にして連れ合いと二人、出かけたって問題ない。二人でお昼にラーメンを食べに行くことだってできるんだ。まだ一回しかやってないけど。必ずどちらかが留守番で残る、という習性はいまだ抜けない。


 葬儀屋さんからの電話におびえることもない。寺で一人留守番をしているときは、トイレやお風呂場にも電話の子機と携帯を持って入った。まぁ、今でも電話が鳴るとドキッとするが、その習性は死ぬまで抜けない気がする。


 連れ合いの友人に転居の挨拶状を出した。その友人がすぐに新品の電話番号に電話をくれた。その友人曰く、
「住所の『北松園(きたまつぞの)』だが、『ほくしょうえん』という施設に入ったかと思った…」
そのユーモアに連れ合いと二人、腹をかかえて笑ったのだった。


 この身についた数々の反射神経のような習性は、新住職が引き継ぐこととなる。
 皆様、何とぞ温かい目でお見守りのほど。私たちは、ほぼ一日おきに寺に「出勤」。「ほくしょうえん」の生活にどっぷりつかるのはもう少し先になりそう。


早春賦 2016年4月6日号

41文の24号文


 三月の末あたりだった。
 朝、本堂の雨戸を開けていると、天空からにぎやかな声が聞こえてくる。身を乗り出して空を見上げると、白鳥の北帰行。クォーッとか、ギャォーッとか、それぞれに思い思いの鳴き声で飛んでゆく。雨戸を全部開け終わった頃、にぎやかにまた次の団体。かなりな高度で飛ぶものもあり、今、飛立ったばかりのような低空飛行もあり、その朝はまるで北帰行ラッシュ。四団体が通り過ぎていった。


 盛岡には「高松の池」という白鳥の飛来地がある。ひと冬に二〇〇から二五〇羽の白鳥が来るそうだ。早春の頃「白鳥、北へ飛立つ」という見出しで、白鳥の写真が地方紙の一面を飾るのは毎年恒例。


 白鳥は、遠く三〇〇〇㎞〜四〇〇〇㎞も離れたシベリアの地へと帰ってゆく。そのコースは、北海道から千島列島を経てカムチャツカ半島と、北海道からサハリンを経てシベリアへと、二つのコースがあるらしい。途中、休憩をとりながら、二週間かけて帰ってゆく。ちなみに、白鳥の飛行速度は平均五〇㎞、追い風では七〇㎞、気流に乗ると一〇〇㎞。標高三〇〇〇mの山脈をも越えられるとのこと。


 白鳥、すげぇ!いや、白鳥さん、すごいです。尊敬します!
 白鳥のV字型編隊飛行にもそれなりに理由がある。先頭の鳥が羽ばたくと、その鳥の真後ろには「吹き降ろしの気流」が起きる。ところが、その翼の外側には「吹き上げの気流」、つまり「上昇気流」が起きているのだそうだ。だから鳥たちは斜め後方に連なり、この気流に乗って、七〇%ものエネルギーを節約し、体力の温存をはかれるのだ。


 またもやちなみに、先頭を飛ぶ鳥はリーダーではない。そもそも白鳥の団体にはリーダーがいないらしい。先頭を飛ぶ鳥は一番体力を消耗するので、ときどき交代をするとのこと。ここはちょっとイメージと違って残念。


 力強くシベリアへと飛んでゆく白鳥を見ていると、我が家の小編隊はなんと軟弱なこと。温室育ちのブロイラーみたいだ。それでもたまにはこの温室にも「世間の風」が吹き荒れる。そんなときは、連れ合いのデカい体が役に立つ。


 鳥のように「斜め後方」ではなく真後ろにいると、風圧はかなり防げる。だが残念なことに、体力がないので連れ合いはすぐ疲れる。仕方がないから、しばし交代。でも二人とも打たれ弱いのでトットと巣に帰り、情けなくもふるえて身を寄せあう。


「 白け鳥、飛んでゆく〜
         南の空へぇ〜」
連れ合い、久々にうまいぞ!

 真っ白い鳥たちが青い空に大きなV字を描き、声をかけ合いながら北へ北へと飛んでゆく姿に、毎年、毎年、同じことを呼びかける。


 夏はちょっと暑いけど、ここに定住したらいいじゃん。どうせまた、冬にはこっち来るんでしょうが。なぜそこまでして帰ろうとするの。やっぱり生まれ故郷が一番いいのか…。


 ああ、もうすぐ春になるな…。ガンバレよ…。

くらい話(泣) 2016年3月23日号

41文の23号文


 宮古の街へ入ると、これといって変わったところはなかった。違うのは停電で消えている信号。交通整理のお巡りさんが吹くピッ、ピッというホイッスルの音。車の長い渋滞。


 海へ行くたび、何度も何度も通った一〇六号線の跨線橋。両側には目隠しの高いフェンス。いつもと同じだ。ところどころフェンスの白いプラスティック板が破れている。その破れた穴に私の胸はドキドキしてくる。跨線橋の頂点から下り坂になると、フェンスがとぎれた‥‥。


 さっきの街並みとまったく違う風景が目の前にひろがる。車を運転していることを忘れ、左手を口にあてて、
「ああ‥‥」
絶句。
胸のドキドキがかたまりになって、泣きそうになる。


 堤防の内側にころがる船、屋根だけの家屋、がれき、がれき、がれき。跨線橋を降りたT字路、交通整理のホイッスルで我にかえった。現実から逃れるため、キョロキョロせずに前だけを見る。前の車だけを見る。堤防のすぐそば、いつも目印にしていたガソリンスタンドはない。信号があったはずの曲がり角には交通整理のお巡りさん。


 親類の寺への入り口を見失い、魚市場に来てしまった。がらんどうの建物とがれき。人影はなく、一台の軽トラックがゆっくり走る。瞬間的に私がいる場所ではない、そう感じた。


 家を出るとき、被災地の写真を撮らなきゃ、カメラ、カメラ、そう思ってバックにカメラを入れた。そんな安易な気分は完全に消し飛んだ。その圧倒的な厳しさと過酷さは、カメラを向けることすら拒む。「日本の力を信じてる」「あなたは一人じゃない」そんな芸能人のかけ声すら拒む。部外者の私が車から降り、立ち止まることすら拒む。テレビの映像では知ることのできない、風の音、ホコリ、におい、奇妙な静けさ。五感で感じるすべてが今までの価値観を拒み、壊してゆく。


 私はがれきを踏まぬよう車をUターンさせ、そそくさと来た道を戻った。


 三月十一日午後、外に飛び出し、ゆらゆらギシギシゆれる本堂を見ていた。ながい時間、ゆらゆらギシギシ。もう終わりかもしれない、そう思いながらゆれる本堂を見ていた。カーラジオから聞き慣れたアナウンサーの声がする。
「大津波警報がだされました! 今すぐ高台に避難してください! 大津波警報がだされました! 海のそばには絶対に近づかないでください!」
テープを再生するように、いつまでもくり返し、くり返し流れていた。


 ゆれる電信柱のむこうに白鳥たちが飛んでいる。コォーッ、コォーッと鳴き声を残し、矢印の形に編隊を組み、北をめざして帰って行く。しばらくするともう一個団体。もう、こんな所にいられたもんじゃないと、こころなしかあわてているふうにも見える。


「私たちを見捨てないでよぉ」白鳥たちに声をかけるが、薄情者の白鳥たちは、わき目もふらず一心に飛んで視界から消えた。  


風邪のあとさき 2016年2月24日号

41文の22号文


 風邪をひいた。
仙台の研修会に出席し、日中はご機嫌に浮かれて過ごし、夜になって、突然熱が出た。悪寒にうちふるえながら、顔も洗わず、お風呂にも入らず、すぐ眠ったのだが、翌日はもっとひどくなった。


 最悪なことに、仙台へは車で来ていた。来ているということは、帰らなければならない。それも車で。すぐに拡散してしまう集中力をこれもまたあまり当てにならない気合いでおぎない、通常二時間半で帰ってくるところ、四時間半をかけて帰ってきた。


「ただいま、風邪ひいた、寝る」


 そういい残して、富山の置き薬を飲み、フトンに直行、後はエンエン二日間、眠り続けた。


 うつらうつらしながら、なぜ風邪をひいたのか、原因をさぐる。あの時だろうか、あのことだろうか、と。
思えば、風邪の原因をさぐることは、失恋の原因をさぐることにも似ている。


 あの時のあのひとことが悪かったのだろうか? この時のこの素振りがよくなかったのだろうか? オロオロしながら思いあぐねる。かりに原因がわかったとしても、今さらどうなるものでもないのに、原因さえつきとめればすべてが解決するような気がして、日常を忘れ、生活を忘れ、中途半端な悪夢のなかで過去ばかりをふり返る。風邪のときとすっかり同じ。


 風邪がよくなって待っていたものは、年末年始の喧噪だった。例年のごとく大晦日にデパートの地下へと買い物に行く。商品もよく見えないほどの混みようで、例年のごとく、ゲンナリとする。買い物かごをぶら下げたまま、なぜ大晦日と正月はごちそうを食べるのだろうと、考えこむ。年が改まることに何をそんなに期待するのだろうと、途方にくれる。


 人は、どこかで区切りをつけなければ生きてゆけないのだろうか。たとえば、
「今日は六百二十四月(がつ)、一万八千七百二十日だよね」


 これは私の生まれた日から計算したものだが、これではやはり、社会生活に支障をきたすか。人をかきわけてまで買い物をする気になれず、買い物メモをポケットの中で握りしめ、ボヤッと私は立ちつくす。


 『改まる年とて 五濁(ごじょく)まぬがれず』


 今年の年賀状にあった言葉。
大晦日だろうと正月だろうと、まず、この五濁悪世界(ごじょくあくせかい)を、認めることから始めなければならない。


 毎年、毎月、そして毎日、認めつづけ、背負いつづけて。失恋だって、恋に破れた現実を受けいれなければ、立ち直れないし、風邪だって、原因究明よりも、体温計の目盛りのほうを直視しなけりゃ。

※五濁
  劫濁(こうじょく)     悪に満ちた時代相になること
  衆生濁(しゅじょうじょく) 人の心が邪悪になること
  見濁(けんじょく)     自分の悪に気づかず、他人の正しさも理解できないこと
  煩悩濁(ぼんのうじょく)  迷いや欲望のために、むさぼり・怒りの心をおこすこと
  命濁(みょうじょく)    いつくしむことを知らず、自分の命も他人の命も粗末にすること





常識 2016年2月17日号

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 小泉八雲(ラフカディオ・ハーン)の作品集から。

・・・・・


 昔、京都の山中に、座禅と聖典の研究に精進する博識の僧が住んでいた。この僧のためにときおり野菜や米を運んでいた善良な猟師がいた。


 ある日、この猟師に僧がこういった。


「長年わしは座禅と読経をつづけてまいった。その功徳かとも思われるが、普賢菩薩(ふげんぼさつ)が毎晩、象に乗ってこの寺へお見えになる。今晩はここに泊まるがいい。仏様を拝むことができるから」


 猟師は喜んで寺に泊まった。しかし、今夜あらわれる奇跡(きせき)について、そんなことがあり得るだろうかと疑いはじめた……。


 真夜中ちょっと前、東の方に星のような白い一点の光があらわれ、光はずんずん近づき、真っ白な象に乗った尊い普賢菩薩のお姿になり、まるで月光の山のようにそびえ立った。


 僧は、普賢菩薩にむかって必死に経文を唱えだした。が、突然、猟師は手に弓をとり、光かがやく菩薩めがけて、長い矢をひょうと放った。矢はその胸元ふかく突きささった。たちまち、激しい雷鳴とともに白い光は消え、姿も見えなくなった。


「ああ、この恥知らずめ! なんというひどい悪いやつだ!」


僧は恥と絶望の涙を流した。猟師はきわめて静かにいった。


「……あなたは、清らかな生活を送っておられる学問のあるお坊様ですから、仏様をおがめる悟りもひらいておられるでしょう。けれども、暮らしのために殺生をしているような人間に、どうして尊いお姿をおがむ力などありましょうか。あなたがごらんになったものは普賢菩薩ではなく、あなたを殺そうとする化けものにちがいありません」


 ……夜明けにしらべてみると、猟師の矢を突き立てた大きな狸の死骸があった……。
 僧は博識で信心深い人であったが、狸に容易にだまされてしまった。猟師は無学で信心のない男だったが、たしかな常識をそなえていた。そしてこの生まれつきの知恵だけによって、危険な幻影を見破り、それを打ち砕くことができたのである。

・・・・・

 なんと、この作品のタイトルは『常識(Common Sense)』 。


 往々にして、博識の僧というは常識に欠けるものらしい。博識の僧に限らず、寺に生まれ寺に育ち、勉学に励む人は、どうも世間の常識からはずれていることが多い。自分の知識や教化者としての立場を意識しすぎて、習いおぼえた仏教語でもって世間をおしはかろうとするものだから、ごく普通のものの見方ができなくなってしまうのだ。


 「目からウロコが落ちる」ではなく、「目にウロコがはりつく」である。一般的に「普賢菩薩」が象に乗ってあらわれることはまずない。(もっとも、現代では狸が化けることもまずないが)一応、疑ってみるのが常識だが、自分がつんだ功徳のおかげでそれが見えると、思いこんでしまうのがその証拠。


 ♪ そんなのじょーしきー
   タッタタラリラ
   ピーヒャラピーヒャラ
   おどるポンポコリで……


春よこい 2016年2月10日号

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 ドドドドォーッ、すごい音がして、本堂の大屋根から雪が落ちる。それに続いて、隣寺の犬がワンワン吠える。


 ここ二、三日、暖かい日が続き、朝からの雨で、満を持したように屋根から雪が落ちた。最初は西側の大屋根から氷混じりの雪が、数回にわたって落ちてきた。


 西側には小さな庭がある。雪の落下を防ぎ、庭の木を守るため、背の高い「雪囲い(ゆきがこい)」が作られる。「雪囲い」などというと、金沢兼六園の風情ある雪囲いを想像するかもしれないが、とんでもない。巨大な安普請の板塀のようなものである。ゆえに部屋のなかは真っ暗になるし、見た目も悪い。毎年冬の初めにこの板塀が打ち立てられ、私は冬の寒さと雪を思い、いつもいつもユーツになるのだった。


 西側の大屋根からすべり落ちた雪は、板塀、イヤ雪囲いにぶつかり、窓ガラスギリギリのところまではね返り、下にたまる。だから、音が三つになるのだ。ザザザァー、ゴンゴン、ドシンドシン。あっ、そして、隣寺の犬の吠える声、ワンワンワン…。


 その点、東側の大屋根の雪は単純に地響きをたてて、ドドドドォーッと落ちるだけだ。だがこちらもいろいろと問題がある。境内なので人が通るのだ。今までそういう事故はなかったが、もしかして、ということがある。そこであちこちにベタベタと張り紙がはりだされる。


 「屋根の雪にご注意ください」


 これも冬の風物詩。この張り紙が風雨にさらされ、半分ちぎれたあたりにようやく春が来るのだが。


 そしてもう一つ、張り紙よりも(?)大事なのが私の車の置き場所なのだ。本当に寒い時期ならば、屋根の雪も凍りついているから安心だが、二月になると大屋根の雪をにらみながら、車を徐々に移動させる。この目測をあやまると、雪の落下によって、車の屋根が見事にへこむ。何しろ氷の塊も落ちてくるのだから。今回は、前日に少しばかり車を前方に移動させたばかりだった。車のわずか五十センチうしろに雪と氷の山ができ、ふぇー、あぶねぇあぶねぇ。


 郵便局への近道は、墓地を通り、近所のお寺の軒下を歩く。ところが案の定、雪が深いままで足あとがひとつもついていない。わずか五、六メートルのところだが、首をかしげて思案する。と、よく見ると、足あとがついているのだ。小さな梅の花のような足あと。犬にしては小さいので、きっと猫の足あとだろう。猫の足あとでもないよりはマシ、思い切って一歩踏みだす。ズブズブと雪に埋まる。猫の足あとは何の役にも立たないが、梅の花に導かれ歩いているようで、どことなく心がおどった。


 少しずつ暖かくなると、向拝(ごはい)の段や、車のボンネットに梅の花が咲く。もちろん猫の足あとだ。雪が消え、陽ざしがつよくなってきたしるし。大屋根の雪が音をたてて落ちるころ、北国の冬は終末に近づく。
 隣寺の犬がワンワン吠えた。どうやら、西側の最後の雪が落ちたらしいな。


上品な人・下品な人 2016年2月3日号

41文の19号文


 友人四人連れだって、温泉へ行った。


 六十路にほど近い女性たちとはいえ、かなりかしましい。とにかくよくしゃべる。それでもしぃ〜んとする瞬間もたまにはある。一心不乱にもの食べているときと、寝ているとき。


 温泉の帰り、宿場町を再現した観光地に寄った。道をはさんで、両側にきれいな疎水と見事な茅葺き屋根の家々がつらなる。その家々はそば屋とか土産物屋になっている。


 名物の「かりんとう饅頭」を連呼する友あり、立派な長いもを買ってぶら下げている友あり、「納豆チーズせんべい」を連呼する私あり、初冬のやわらなか陽ざしのなか、ちょっとうるさい集団。一軒しかない「かりんとう饅頭」の店先で、くだんの饅頭を一個ずつ買い、無料のお茶をいただいて、腰をあげて帰ろうとしたとき、饅頭屋さんのおじさんがひとこと。


 「品のある人たちだなぁ」


 お世辞とは知りながらも、内心の勇躍歓喜(ゆやくかんぎ)を外に出さず、にこやかに「そんなぁ…」といいつつ、ちょっとばかし気取ってその場を離れる。


 話し声が聞こえぬ距離まで歩いてきたとたん、もう、セキを切ったようにぺちゃくちゃぺちゃくちゃ。


 「えへへへぇ、上品だって!」

 「上から目線がばれたな!」

 「ネコかぶるのうまいもん!」

 「帰ったら、お父ちゃんに教えなくっちゃ!」

遠くの駐車場までおしゃべりは続くのだった。


 「上品」「下品」とはもともと仏教用語である。仏教では「上品(じょうぼん)」「中品(ちゅうぼん)」「下品(げぼん)」という。階級分けが大好きな仏教は、「上・中・下」それぞれがまた上・中・下に分けられる。


 「 上品上生(じょうぼんじょうしょう)」「上品中生(じょうぼんちゅうしょう)」…、というように全部で「九品(くほん)」。一番下は「下品下生(げぼんげんしょう)」。


 これらの階級はその段階に応じて臨終の対応がまったく違うのだ。たとえば「上品上生」の人は臨終のとき、阿弥陀仏みずからが迎えに来て、蓮華の大輪にさっさと載せて、さっさと浄土に連れて行ってくれるらしい。


 これが「下品下生」になると、なにしろ品性が卑しいので臨終間際になってもジタバタとし、人に勧められ、ようやくひと声「ナンマンダブ…」。そこで見えるのは蓮華の花のつぼみだけ。その後、なが〜い時間を経て蓮華が開花し、なんとか浄土にたどり着けるらしい。


 我らが親鸞は、自身を「下品下生」の極重悪人と位置づけ、こんな私でもただ一回の念仏で救われると説いている。


 ただし、先のごとき法話をするお寺さんのほとんどは、自分を「下品下生」の人間だなんてこれっぽっちも思ってやしない。「上」とはいくら何でもいえないが、ま、「中の中」? 謙遜して「中の下」。実際のところ、親鸞のごとき透徹した意志を持たぬ限り、凡愚の私は「下の下」では生きてゆけない。


 連れ合いに宿場町でのエピソードを報告すると、連れ合いは苦笑するどころか、こういった。
 「オレも昔、品のある顔つきをしていると、いわれたなぁ…」


 あ、やっぱり!  


怒らない・怒りたい・怒る・怒れば・怒るとき 2016年1月27日号

41文の18号文


 とあるホームページ。「日記」が毎日更新されている。それで、こちらもつられて、毎日のぞいてしまうが、このホームページの「日記」、いつもいつも怒っているのだ。政治のことにしろ、NHKの問題にしろ、差別の問題にしろ、研修会の講師の話にしろ、連れ合いのことにしろ、子供のことにしろ、ついには子供の友人のことにしろ、よくもこれだけ怒ることがあるものだと思うぐらい、怒っているのだ。その怒り方が千差万別なので、こちらも「さて、今日はなにを怒っているのかなぁ」と、楽しみにしてしまう。


 その「日記」を読み続けて約一年、その「怒り方」にいくつかの傾向があることに気がついた。第一、そのときどきの事件、事故、天災について怒る。そしてその諸機関の対応について怒る。第二、他の考え方が、自分の考え方とちがうときに怒る。第三、自分の思いが通じない、あるいは自分の思い通りにならないときに怒る。第四、怒る対象に自分自身がはいっていない。自分だけは一段上に立っている……と、ここまで分析して、またまたあることに気がついた。「えっ? これって私の怒り方とすっかりおんなじじゃん?」


 「法蔵(ほうぞう)の願心とは、怒(いか)りをあらわす心である。(中略)今日、宗教を語り、信心を学ぶ人は多い。しかし、そこに怒りもて、まことを求める人は少ない。法蔵の願心は、もと純粋な憤怒(ふんぬ)の言葉ではなかろうか」
   藤元正樹『仏の名のもとに』


 むずかしくてイマイチよくわからないが、仏の、衆生(しゅじょう)を救わんとする願いの根っこには、「憤怒」つまり「怒り」があるということらしい。もちろん、仏の「怒り」は、私が毎度のことに感情的にムカッとして、怒ったりキレたりすることと、まったく次元も規模もちがうのだ。


 ちなみに、「類語辞典」で「怒り」という項目を引いてみると、憤(いきどお)る・逆上する・ぷっつんする・ 鶏冠(とさか)に来る(これなど死語に近いが)・ 気色(けしき)ばむ・かんかん・烈火の如く……等々、実に二百四十個以上の同類語がある。私の怒りのほとんどは、「自分は絶対に正しい、まちがえるはずがない」という前提のもと、あらん限りの言葉や態度の総動員で、相手が誰だろうとなんだろうとまったくかまわず、おのれ自身をたて、まもることに必死なのだ。もうこうなると、八つ当たり状態。自分を棚上げにした怒りは、とどまることを知らないようだ。


 仏の「純粋な憤怒」とは、そんな「私」を悲しみ、嘆き、
「コラ〜ッ、なんぼいったらわかるんじゃ!いいかげん気がつかんかい、この愚か者!!」
と、全人類にむかって投げかけられる。


 「気づく」ことから「ほんとうの怒り」がはじまるのかもしれない。とりあえず、私の愚かさに気づくことからはじめよう。そうすると、他人のことなんかかまっていられないかもしれない。自分に腹が立ってどうしようもなくなるかもしれない。でも、それが一番イヤなことなのだが。

博物館の怪 2016年1月13日号

41文の17号文


 私は博物館が好きなのだ。別に歴史が好き、というわけではない。あのほの暗い室内の照明と静けさ、そして少しばかり湿っぽさ、どことなくカビ臭い感じが好きなのである。


 今日も博物館にやってきた。


 外は春爛漫なのに、そんなこととは一切かかわりなく、相変わらず何千年、何百年も前の古びた品々がならんでいる。


 何回か来ているので展示物とはすでに顔なじみだ。縄文時代の大きな素焼きの壷。平安時代の極彩色に彩られた美しい骨壷。立ち止まるところも、ほとんどいっしょだ。一人でブツブツと何やらつぶやいている老人や、展示物などどうでもいい修学旅行の子供たちを、やり過ごしたり追いこしたりしながらゆっくりとまわってゆく。


 ガランとした何の飾りもない部屋には、大きな仏像が何体かおいてある。「阿弥陀仏座像」、「薬師如来立像」などなど。仏像はあまりめずらしくもないので、あっ、どーも、という感じで通り過ぎる。私が好きなのは、ひと部屋全部を使ってドーンと鎮座している「閻魔大王」とその家来達である。実物の人間より倍は大きいだろう。言い訳ばかりを考えている人間を見据える大きな目には、かなりな迫力がある。人間の数々の罪状を書き付ける紙と筆を持って、こちらをにらむ家来たちは、どことなくユーモラスで、ウチの配偶者に少し似ている。ここでは心のなかで頭をさげて、ごくろーさまですと通り過ぎる。


 今まであまり気づくことなく通り過ぎていたところで、私はフト足を止める。何となく視線のようなものを感じたのである。顔をあげると、そこには二体の「金剛力士像」、つまり、「仁王像」が立ちはだかっていた。阿吽(あうん)と呼ばれる対の仁王様である。向かって右側の仁王様はコワい顔ではあるが別にどうということはない。


 問題は、向かって左側の仁王様である。どうもこちらの方をにらんでいるような気がする。大きく口を開け、左手に武器を持ち、右手は大気をやぶるかのようにクワッと開かれている。そしてその目が、私を見つめている。私はゆっくりと仁王像の左側にまわる。彼の目がギロリと私の動きを追う。


 私は左側から右側へと音をたてずにソロソロと歩く。め、目が、う、動いている! 動くわけがない、そう自分にいいきかせて、今度は右側から左側へとまたもやソロソロと歩く。彼の目は、私の視線をはずすことなく右から左へと私を追う。そのうえ、力強く開かれた右手の薬指が、ピクンと動いたような気もする・・・。誰もいない展示室で、私は一人、仁王様の前を行ったり来たりしているのだった。


 金剛力士とは、釈尊の身近にあって、その護身の役をになう尊像だという。私は釈尊に対するこれまでの数えきれぬほどの不敬を思い、クワバラ、クワバラ、首をすくめて博物館をあとにした。

謹賀新年 2016年1月6日号

41文の16号文


 あーあ、今年も明けちゃった。


 そんでもって、
「早く原稿、書かんかい! 今月もまた遅れるでねぇか!」
ってことで、新春であるにもかかわらず、やっていることはいつもとなーんにも変わらない。ただひとつ変わったことといえば、またひとつトシをとっちゃうことぐらい。


 —時間は流れるのではない、
          積み重なるのだー

 って誰かがいっていたけど、ということは、この目尻のシワ、腹のでっぱり、積みかさなった「時間の重み」でできちゃったんだ。ふ〜ん。


 そういえば、下着メーカーのデザイナーがいってたけど、


 —地球には重力があるから、
   身体の肉が垂れ下がってきて
           当然なんですー


 ということは、このかよわき身体に、「時間」という目に見えぬ重さと、「重力」という物理的な重さとが二重にのしかかっているわけだ。ふ〜ん。


 先日、東京に行ったとき、三十数年ぶりで通っていた大学を訪れてみた。一、二年生の、つまり教養課程の校舎である。はじめて都会に出て、夢と希望に心はずませた、うら若き青春の校舎である。もっともそれも最初の半年ぐらいのことだったが。


 私鉄の駅に降り立ち、
「ひぇ〜〜」
まったくの様変わり。


 当時の面影を残すものはなにもない。ムリをしてさがすとしたら、わずかに見える線路の石垣ぐらいなもの。駅前にあったパン屋。カステラの間にヨウカンをはさんだ「シベリア」という名のパン。その名の由来はわからずじまい。二個で百二十円のおにぎり屋。生まれてはじめて食べたイタリアンスパゲッティの食堂。そんなものはすべてない。見あげるようなマンションとチェーンのコーヒー店。それしかない。


 学生らしき若い人たちの流れにのって、トコトコ歩くと甲州街道をまたぐ歩道橋。昔と場所は同じだが、歩道橋の幅も長さも倍近く大きい。おまけに甲州街道の上には高速道路。昔はもっと空が広かった、もっと遠くまで見わたせた、といってもセンないことで、そしらぬ顔でトットコ歩く。歩道橋を降りるとそこが大学の校門。


「ふぇ〜〜」


立ち止まらなくとも、様変わりなのはひと目でわかる。ガラス張りの大きなビル。一階は白いテーブルとイスが並ぶカフェテリア風。それだけを横目でながめ、通り過ぎてまわれ右、いま来た道をさっさと帰る。歩道橋のたもとにビラ配りの人。


「卒業旅行にいかがすっかぁ」


旅行のチラシを配っていたが、私にはくれなかった。行きも帰りも二回とも。別にいいけど。


 あーあ、まちがえちゃった。「時間の積み重ね方」を。足もとに上手に重ね、その上に立ちあがるべきなのに、乱雑に放り投げてきたので、立つことはおろか、その重さに身動きがとれないよ。時間の重さと重力で、顔のシワは増すばかり、腹はドンドンでるばかり!


ワイパー 2015年12月30日号

41文の15号文


 いよいよ、北国の人にしか理解できない「雨が降ってもいないのにワイパーを使う日々」が始まってしまった。ほんの数ヶ月前まで気温三十六度、暑い、とかいっていたのに、ナンダコノヤローという感じである。


 雪が降った次の日、天気がよくなると道路の雪が解ける。ビチョビチョになった泥まじりの雪は車のタイヤに巻き上げられる。巻き上げられた泥水は、うしろを走る車のフロントガラスに飛び散ってゆく。ゆえに、雨が降らずとも、太陽がサンサンとふりそそごうとも、ギシギシとワイパーを動かさなくてはならない状況となる。不運なことに前をダンプカーなぞが走っていたりすると、それはもう、半端じゃないほどの泥水が降ってくる。あぁ、ほとんど前が見えない。


 最初のうちはワイパーではじき飛ばすことができるが、無惨に残った泥水のしま模様は乾いてしまうとワイパーでぬぐいきれない。と、ここで一番問題となるのが、ウォッシャー液の残量なのだ。ウォッシャー液をピューッとだして、ワイパーをギシギシ、視界良好、泥水バシャ!ウォッシャー液をピューッ…、それの繰り返し。ブクブクッと泡だけを残してウォッシャー液がなくなると、状況は最悪の一途をたどる。


 濡れた路面に強い日ざしが照り返り、センターラインもさだかでない。フロントガラスは泥水のしま模様。バックミラーをのぞくと、リアウィンドーは己(おのれ)のタイヤが跳ね上げた泥水でうすぼんやりと曇っている。こちらはもう、リアワイパーを動かしてみてもすでに手遅れ。カサコソという空虚な音が残るだけ。


 ふ…、まぶしすぎて、モノがよく見えないぜ、まったく…。だいたいにおいてだ、「無明の闇を破す」とかなんとかいうけど、あれ、暗闇から急に明るい所へ出たなら何にも見えないだぜ。トシを取ると余計、明るさに慣れるのに時間がかかるし。「明暗順応」ってやつさ。ただでさえ煩悩(ぼんのう)の泥水で曇るこの眼(まなこ)、視界がはっきりしないうえ、明るすぎては見えないのと同じことさ。そう、♪灯(あか)りはボンヤリともりゃいい…♪
 そんなことを思ったり思わなかったりしながら、ワイパーではじき飛ばせる水分量の泥水を求めて、ダンプカーのうしろをヒタとくっついて走るのだった。


 うらうらとした小春日和のなか、泥水をかぶっているのは車ではなく私自身のような気がしてくる。所詮、心の闇はワイパーなんかで拭い去れるはずもないが…。  

ひとりごと ぶつぶつ 2015年12月21日号

41文の14号文


 よく「自己との闘い」とか「おのれに勝つ」とかいうけど、これってよくわかんないんだけど。


 「自分に勝つ」ってことは「自分に負ける」ってことがあるわけだよな。でもって、自分に勝った! とかいってみても、負けたのも自分なんだよな。で、負けた方の自分はどうするわけ? 負けた自分は自分じゃなくなるわけ? ほんと、わけわかんね。

 あ、そりゃいいたいことはわかるよ。「自分に勝つ」ってことは、自分のなかのダメな部分、眠くて朝起きたくないとか、太るのがわかっててもケーキ食べるとか、金がないのに何か買っちゃうとか、ダラダラとした毎日を過ごすとか、そういうダメな部分をのさばらせちゃいけないってか、コクフクするってことだろ。


 いや、それで、なおさらわからないのは、いったい誰が「判定」するんだ?ってことなわけ。そう、勝ち負けの判定。食べたいのをガマンして2キロやせた。これって自分の各種ヨクボウに「勝った」わけだよな。でも、ちょっと油断してたら3キロ太った。これは自分に「負けた」ってことだよな? 「自己との闘い」の結果が体重計の目盛りで決まるってのは、なんかムナシクね? それでもって減量しすぎて病気、なんてことになったら、勝ち負け、わかんね。


 スポーツ選手なんかだと、各種ユウワクにうち勝って、すげぇ練習して優勝なんかしたら、そりゃ、まわりは「自分自身に勝った、すごい」と認めるよな。でも、選手本人は「いえ、まだまだです。これからもっと上をめざして…」って認めないよな。


 逆に、「私は自己との壮絶な闘いに、みごと勝利しました!」って自己申告しても、ま、そういうヤツはあまり見たことないけど、ほかのだれ一人認めないってこともあるよな。


 お釈迦サマだっていってるさ。

「戦場において百万人に勝つよりも、ただひとつの自己に勝つものが最上の勝利者だ」

でもなぁ、これって、百万人の敵に勝つ方がすごくね? だいたいにおいて、一人で「百万人の敵に勝つ」ってことがムリな話だろ。っていうか、百万人を相手に一人で戦うなんて状況がありえなくね? 仮にそういう状況になったとしても、逃げるよな、ふつう。逃げたら殺す、っていわれても、死んでもいいから逃げるよな。


 いやさ、お釈迦サマのいってることが「たとえ」だってことぐらいはわかるよ。「自己に勝つ」人は、「百万人に勝つ」人よりエライってことだろうが。いや、マテ、百万人に勝つことがそもそもムリな話だから、いくらエライとか「最上の勝利者」とおだてられたって、できるわけないよな。人間にはムリだよな。ロボットとかじゃないとムリだよな。ロボットなら百万人にも勝てるし、「自分に勝つ」とかややこしいこと考えなくてもいいだろうし、ロボット、これ最強!


 ぶっちゃけ、自他ともに認める「自分に勝った」人っているのかよ。ヨクボウとかなくせるヤツっているのかよ。やっぱ、ロボットしかいないべ。「自分に勝つ」ってのは、ロボットになれってことかよ…?


明日はどっちだ? 2015年12月9日号

41文の13号文


 先日テレビを見ていたときのこと。元気そうなお年寄りがキッパリといい切った。

 「しっかりと前を見て歩いていきましょう!」

 それを見ていた連れ合いが、ボソっとつぶやく。

 「この歳になると、どっちが前でどっちが後ろだか、わからなくなるんだが…」


 「前を見て歩く」
 この場合の「前」とはいったい何を指すのか。
 ごく普通に考えると、「将来」とか「未来」。それも希望のある、あるいは希望を見いだせそうな「将来」「未来」ということになる。仮に、希望も何もない未来なら、そちらに歩を進める気力もおきない。


 子供達が幼いうちは「末は博士か大臣か」とばかりに、将来に希望を持ち、骨身を惜しまず働く。
 でも、その子が成長し、博士にも大臣にもならず、何一つ親の思い通りにいかぬ場合、悲しいかな、親は親としての将来を見失う。
 そこで仕方がないので、子供の頃はあんなに可愛かったのに…とか、あの子は才能があると思ったのに…とか、思いはすっかり後ろ向き。親としての将来も、一人の人間としての将来も、あるのかないのか、視力が落ちたせいなのか、霞がかかってよく見えない。


 とある会議。

 「2年後にこういうイベントがありますので、皆さんお手伝いをよろしくお願いします」

 それをきいた出席者、皆一斉に口から出る言葉はほとんど同じ。

 「えぇ?2年後なんてそんな先のこと、生きているかさえもわからないよぉ」


 歳を取ってくると、2年後はおろか、来年のことすら保証はできない。右手を日よけに目を細めて見えるのは、せいぜい今年の冬ぐらいか。それも無事に越せるかどうかのその一点。守備範囲はどんどん狭まり、この先、数ヶ月といったところ。長期の計画なんて、とてもじゃないが立てられない。明日何が起きるか見当もつかないので、毎日がその日暮らし。


 50歳を境に、これから生きてゆくであろう歳月よりも、今まで生きて来た歳月の方が日々、どんどんと長くなってゆく。そこで自己防衛本能が発動され、困難が待ち受けそうな明日に目をつぶり、心は過去へと寄りそってゆく。
 けど、これは当然のことだよな。将来のため、明日のために今を生きる余裕はもうない。精一杯のその日暮らし、大賛成!


 昔のアニメ「明日のジョー」。その主題歌にもあるじゃないか。

  サンドバックに
  浮かんで消える
  憎いあんちくしょうの
  顔めがけ
  たたけ!たたけ!たたけ!
  俺らにゃ けものの
  血がさわぐ
  だけど ルルル‥‥
  明日はきっと なにかある
  明日は どっちだ


晩秋の京都 2015年12月2日号

41文の12号文


 他の寺の団体旅行に紛れ込んで、京都へ行ってきた。


 最終日には本山の報恩講に参拝するのだが、その前二日間は親鸞の誕生・出家・比叡山での修行・転機となる「夢告」・法然との出会い、といった彼の半生をめぐる旅らしい。こういう形式の団体旅行は初めての経験なので、結構、ワクワク。全行程、すごい強行軍二泊三日だったが。


 一日目はなんと、まっ暗な朝四時起きで五時半集合。八時の飛行機に乗って九時伊丹到着。


 空港からまっすぐ親鸞誕生の地・日野の里、法界寺(ほっかいじ)へ。産湯に使った井戸だの、えな塚だのをゾロゾロ見て回る。添乗員さんの立て板に水を流すような解説を聞きながら、私は少し離れてひとり考える。親鸞といえども、生まれたときはただの赤ん坊だろ? 将来、大物になるなぞと、そのとき誰が思ったのだろうか? そのとき、この井戸を産湯につかった井戸だと確定し、保存せねばならぬと、誰が思ったのだろうか?


 二日目も朝、朝食開始時間六時四十五分に食堂の列に並ぶ。ほんとにどこに行っても人、人、人だらけ。京都は紅葉シーズン、おまけに土、日と重なり、観光客がハンパない多さ。


 この日一番は親鸞が得度(出家)した寺、青蓮院(しょうれんいん)。小さめのお堂に全員座らせられるが、その名は「植髪堂(うえがみどう)」。なんでも、九歳の親鸞が得度したときにそり落とした髪を、童子の像に植え、その像を祀(まつ)ったお堂とのこと。


 添乗員さんはやけに自信をもってキッパリと
「そう、剃髪されたそのときの桶がこれなのです!」
古そうな桶を指さして断言した。


 後ろの方で私の疑問はまたふくらむ。いくら親鸞といえども、得度したときはただの子供。そのとき、この子は将来、必ずや大物になると、誰が思ったのだろうか? それゆえ、この毛髪や桶は保管しておいた方がいいと、誰が思ったのであろうか?


 バスは一路、比叡山へと向かう。ここも祭りでもあるかのごとく人、人、人。半世紀近く前、修学旅行で訪れた根本中堂は静寂につつまれていたが、今は様変わり。あちこちに比叡山延暦寺出身である高僧の生い立ちを描いた絵看板(しかもスポンサー名がしっかり明記)が林立し、甘味処、土産物屋は大繁盛。


 お堂に入ると、値段表ばかりが目につく。

 灰に字が浮きあがる線香一本・五十円。
 ロウソク一本・百円。
 施主の名前を書けるロウソク大一本・千円。
 願い札(絵馬)一枚・五百円。御朱印一枚・三百円。
 数珠各種・値段それぞれ。
 十五センチほどの黄金の観音像一体・二万円。
これは施主の名前を書き、四方の壁一面にギッシリと並んでいる。置き場所、まだまだ余裕あり、とばかりにカラの棚、幾面もあり。


 これを見て、私はつくづく思った。宗教法人からも絶対、税金を取るべきだ!と。


 伝説のなかに生きる親鸞聖人と『教行信証』を書いた透徹な思想家としての親鸞。そのギャップにすっかり戸惑い、肝心の「仏教」をどこかへ置き忘れてしまった観光寺院にただただ驚嘆する。ほんと、貴重な経験をした団体旅行だった。


「腹のムシ」一考察 2015年11月25日号

41文の11号文



 ぎゅぅ、ぐるぐる、ぎゅぉ、ぐるぐるぐるぐる…


「すごい腹が鳴ってる、なにそんなに腹減らしてるの?」
「あ? 朝飯食べてくる」


 ぎゅぉ、ぐるぐるぐる、ぐぅ、ぐるぐる…


「まだ鳴ってるよ、まだお腹すいてるの?」
「おかしいなぁ、今、朝飯食ったばかりなのに…」


「腹が鳴るのを『腹鳴(ふくめい)』っていうんだって」
「ふうん」


「のみ込んだ空気と消化物とが、腸の収縮運動によって撹拌されるために起こる、ってネットに書いてあった」
「ふうん」


「大食い、早食い、すすり食い等は食物とともに多くの空気をのみ込むことになってしまうのでやめましょう、って書いてある」
「ふむ、全部当てはまる」


「精神的ストレスや不安があると、無意識に大量の空気をのみ込んでいます。このようにして大量の空気をのみ込むと、腹鳴が起こるのです、っても書いてある」
「ふうん、精神的ストレスや不安、全部当てはまる」


 ぐるぐるぐる、ごごごご、ぎゅぅ…


「またかよぉ、今、昼飯食ったばかりなのに」
「食事のときに空気をのみ込まないように気をつけましょう。また、炭酸飲料やガムは予想以上に空気をのみこみますので避けましょう。そして不安や心配事の解決をはかることも大切です、って書いてある」
「不安や心配事の解決って、所詮ムリ、絶対ムリ…」


 ごろごろごろ、ぐぐぅ、ぐるぐるむぎゅぅ…


「夕飯食ってもまだ鳴るなぁ、俺の腹のムシは一体どうなっているんだ!」
「腹の虫、その①、人体の腹中に寄生する虫。回虫の類。その②、空腹時の腹鳴を腹中に虫がいて、それが鳴くものとしていう言葉。ってネットの慣用句辞典に書いてあった。昭和二十年代には全国民の七〜八割が寄生虫の卵を持っていたんだって。日本人のほとんどがお腹の中に『虫』を飼ってたようなもんだわ。今は一パーセント台だって、ネットに書いてあった」


…… ……
…… …… し〜ん


「ここにきてようやく腹が静かになったね」
「ふむ、寝酒の焼酎と発泡酒でやっと腹のムシが治まったか…。俺の精神的ストレスや不安がアルコールで緩和されたってことか」


…… ……
…… …… し〜ん


「あたし、あなたの腹のムシの名前、知ってるよ」
「なんて名前だ?」




「アルチュウ!!」


追憶 2015年11月18日号

41文の10号文



 ああ、隔世の感がある。
今はインターネットで「音楽」が買える時代になってしまったのだ。一曲、百五十円から二百円。クレジットカードを持たない私は、「音楽配信開始!」と聞くやいなや、大手電気店に飛んでゆき、「ミュージックカード」なるものを購入。二千円券、五千円券……、その金額だけ音楽が買える、という仕組み。


 さあ、張り切ってパソコンの前にすわる!ところがどっこい、茫然自失。その数、百万曲。漢字で書いてしまうとわずか三文字だが、一、〇〇〇、〇〇〇曲。クラシックからレゲエ、ヒップホップ、落語、果ては「十分間でマスターする英会話」まである。どこをどう手をつけていいのか皆目わからない……。


 小一時間ほどパソコンの画面とにらめっこで、ようやく昔の流行(はや)り歌を三曲購入。それすら、持っているCDを子細に点検すればどこかに収まっている曲のはず。大きなため息がでて、もう、すっかり疲れてしまったのだ。それから二、三日はどんな曲を買ったらいいか、そればかり考えていた。


 私が小学校の高学年のころ、「九千五百万人のポピュラーリクエスト」というラジオ番組があった。人口がまだ一億人を超えていないズーッと昔のこと。そのラジオ番組が大好きで、お風呂に入るときすら、トランジスターラジオ(おお、なつかしいこの響き!)を持って入ったのだった。


 あっ、これだ!私は昼寝のソファからガバッとはね起き、検索に検索をかさねて一曲購入。何十年ぶりに聞くその曲は、なつかしさにあふれている。初めて買ったドーナッツ盤(ああ、これも今は死語)だったかもしれない。男性歌手が白い歯をみせて笑うそのレコードジャケットを、ありありと思い出す。


 高校の文化祭。実行委員だった私は下足当番で、すのこにスリッパなぞを並べていた。
「音楽室にてレコード鑑賞会」(ああ、レコード鑑賞会!いまなら、なに、それ?といわれそう)そんなポスターにつられ、ヒマをみつけて音楽室へ。暗幕を張った音楽室には大音量のギターとオルガンが鳴り響く。小さなレコードプレーヤーしか持っていない私は、いたく感激し、あやうく泣きそうになっていた。


 あっ、これだ!私は昼寝のソファからまたもやガバッとはね起き、一曲購入。


 四十年前、「音楽」はラジオで聞いて、レコード屋さんに行って買うものだった。ドーナッツ盤、三百三十円(だったと想うが)。曲が十数曲はいったLP盤は高くてとても買えない。LPのレコードが応接間の棚いっぱいに並んでいる家の子は、たいてい両親のことを「パパ」「ママ」と呼んでいたっけ。


 レコード屋さんの店先でキチンと視聴し、大切にかかえてきたドーナッツ盤を、うす暗い小さな部屋の、小さなレコードプレーヤーに耳を近づけ、ワクワクしながら聞いたものだった。


 今は、昼寝のソファからはね起き、即購入。パソコンから流れでる昔の音楽は、時間の流れを受けつけられない私のように、少し硬(かた)い。

初冬幻想 2015年11月4日号

41文の9号文


 ピンポーン、パンポーン……。近くにある中学校のチャイムが聞こえる。授業開始の八時半。私は竹箒で庭を掃く。むかいの寺も、ザアッ、ザアッと竹箒の音がする。となりの寺は、落ち葉が山をなして、もう掃除はすんだ様子。竹箒を手に持って、私は木を見あげる。


 「ああ、まだまだ落ちるなぁ」


 ため息のかわりに声が出る。掃いているそばから、ハラリ、ハラリと、葉が落ちる。


 落ち葉を少しずつ掃きためては、ゴミ袋に入れる。砂利が敷いてあるので、きわめて掃きにくいのだ。砂利と落ち葉をより分けて、ゴミ袋に詰めてゆく。


 「この葉っぱ、全部でいったい何枚ぐらいあるのだろう? 何千枚、イヤ、何万枚、イヤ、何千万枚かな」


 愚にもつかないことを考える。


 「この葉っぱが一万円札だったらいいのになぁ……」


 バカなことを考える。


 「あっ、そうすると、掃除をする前に、一枚残らずみんな持っていくんだろうな。庭掃除はしなくていいか、ラクかも……」


 バカな想像はもっとふくらむ。


 「この砂利が全部百円玉ならいいのになぁ……」


 落ち葉にまざって砂利がふたつ、ゴミ袋にまぎれこんだ。


 「おっと、二百円、もったいない、もったいない……」


 こうなるともう、狂気に近くなってきた。


 ずっと昔見た映画。タイトルもストーリーも、中身も忘れたが、少年がやたら「数」をかぞえている映画だった。冒頭から少年は木に登り、枝に腰をかけて、葉の数をかぞえている。大きなスタジアムで人の数をかぞえ、川だったか池だったか、釣り堀だったか、魚の数をかぞえる。数をかぞえる、という行為が何を象徴しているのかも忘れてしまったが。


 実は私も、結構、数をかぞえる方なのだ。もっとも、映画の少年のような根気はない。この地球上で今までに何人の人が死んだのだろうとか、紅葉に燃える山々の、木々の葉っぱは全部で何枚だろうとか、子供たちに、今まで一体いくらお金がかかったのだろうとか、かりに正確な数字がでても、何の意味もないようなことをかぞえたくなる。素麺をゆでているとき、無意識に「いち、にい、さん……」と、数をかぞえているし(だが、素麺の本数ではない)、旅先の宿で眠れないときにも、数を(この時はヒツジの数で、大抵二百匹ぐらいまで)かぞえる。病院の待合室でも数を(待っている人数ではなく)かぞえる。


 テレビで「四十八億円の宝くじ」が当たった人のことを見た翌日、竹箒を持って庭に出る。


「四十八億円、この庭の落ち葉と同じぐらいの量だろうか……、このゴミ袋ひとつで、一体いくらだ……?」


 またもや狂気の思考は続行する。掃くのが面倒くさくなって、一枚ずつ拾いはじめる。当然、枚数をかぞえながら。

人を車で判断してはダメじゃ 2015年10月21日号

41文の8号文


 とある衣料品店の駐車場。


 店の出入り口に一番近い場所が空いていた。ラッキー!と、なんの躊躇もなくそこに車を入れる。鼻歌まじりで車から降り、カチャッとドアをロックしたそのとき、隣に止まっていた車の窓がスーッとオゴソカに開いたではないか…。


 年代物の黒くてやたら長い車、小さな穴ボコを踏んだだけでガシッとこすってしまいそうな低い車高、窓は、サングラスをかけたようにフロントガラス以外全部真っ黒。高速道路などで絶対に近づきたくない、なんというか、まぁ、暴走族仕様の車。その車の真っ黒なスモークガラスが音もなく静かに下がって、


 「あのサ…」


中の人が声をかける。


 「へ…?」


 思わず鼻歌を飲み込み、むせたわけではないが、出てきた返事が「ハイ?」でも「ハァ?」でもなく情けないことに「へ?」。スモークガラスの向こうからあらわれた顔は、三十歳前後の車には似合わぬ小柄なお兄さん。あまり怖そうではないが、相手の車が車だけに、あたし、どっかにぶつけた? え? マジ? 飛びあがるほどびっくりした。


 全開した窓にヒジをのせ、お兄さんはこういった。


「あのサ…、今、見てたんだけどサ、車のバックランプ、右側のが切れてんじゃね?」


「へ? あ、ほ、ほんと?」


 バックランプを確かめるふりをして「へ?」の動揺をごまかすためにだけに車の後ろにまわった。だから、バックランプをキチンと見ていない。だが、この時点で、ん?という小さな疑問が頭の片隅に浮かんだのだった。


 「あのサ、バックランプとかサ、ブレーキランプってサ、切れてるの気がつかないんだよな。直しといた方がいいよ」


 「あぁ、全然気がつかなかったわ、ど、どうもありがとうね」


 いや、いや、なんのなんの…というようにお兄さんは片手を軽くふった。またオゴソカにスモークガラスがウィーンとあがり、私は張りついた笑顔のままで、アゴから口、鼻から目と、スモークガラスで消えてゆくお兄さんをお見送りした。


 ワラワラとうろたえながら店に入り、洋服を見るより先に、私にはすべきことがある。さっき感じた「ん?」の疑問解明だ。レジの後ろ、ショーウィンドーのガラス越しに私の車が見える。もちろん隣には黒ずくめあの車。私の車のバックランプを確認。


 やっぱりな、なんかおかしいと思ったんだよな…。そもそも私の車にバックランプはひとつしかないのだ。大きい車には左右にバックランプがふたつあるが、小型車にはひとつだけ、というのが結構多い。私の車も左側にひとつだけ。右側が切れているのではなく、もとからない。


 それからしばらくの間、私は店内をうろついていた。あのお兄さんより先に駐車場を出て行くわけにはいかない。私の車の後ろを見て、バックランプがひとつだということに気がついたら、親切なお兄さんに恥をかかせてしまうじゃないか。


 お兄さんの車が姿を消したとき、私は心底ホッとしたのだった。

ひかえ ひかえぃ! この紋どころが…☆ 2015年10月15日号

41文の7号文


 「ひかえ ひかえぃ!」


 一時期、夕方に再放送されていた「水戸黄門」を毎日見続けていた。諸事情で五時半から二十分間というはなはだ中途半端な時間でだが。


 いやぁ、面白かった。面白いというか、なつかしさが満載。見ていたのは最も初期の東野英治郎編。一九六九年から始まったらしいので、私がウラ若きオトメの頃ではないか! 画面に出てくる悪いお代官様、悪徳商人、ヨヨと泣きくずれる被害者女性、いじめられる善良な各種職人・町人、もうすべてがなつかしい顔ばかり。名前だって全部おぼえている。


 私は東映の時代劇で育った、そういっても過言ではない。小学校低学年、当時は家族で旅行することなど宇宙旅行より夢物語だった。どこにも行かなかったが、唯一、映画館だけには頻繁に連れて行ってもらった記憶がある。それも東映の時代劇。それも当然、封切館ではない。今はもうほとんど姿を消した「二番館」「三番館」というヤツで、ちょっと古めの映画を三本立てで見せてくれる映画館だった。


 忘れもしない、旧町名生姜町(しょうがちょう)にあった「みなみ東映」。そこの持ち主が寺の総代さんだったような気がするが、しょっちゅうタダ券をもらっていた。そうすると母と兄、三人でウキウキと映画を見に行ったものだ。入場料を払ったとしても三本立てで確か八十円だったか。


 なにしろ東映時代劇の全盛期、映画館はいつも満杯。土曜の夜などは後ろの方で立って見ていたほどだ。休憩時間にホコリっぽく狭い通路をアイスクリーム売りが通ってゆく。私はいつも母の袖を引っぱるのだが、答はいつも決まっていた。


「こんな人混みでアイスなんか食べるもんじゃないの!」


 チッ、けちんぼ!毎回私はふくれっ面をしていたが、今にして思うとお金がなかったんだろうなきっと。「新吾十番勝負」「旗本退屈男」「若さま侍捕物帖」「宮本武蔵」等のシリーズはほとんど見ている。中村錦之助の「親鸞」だって見た。以来、親鸞像に関しては幼き日のトラウマがいまだに存在する。


「ふふふ、越後屋、おまえもワルよのう…」
「そうおっしゃるお代官様も相当のものだと…いひひひ…」


というコントの原点を、幼い私は胸おどらせて見ていたのだ。もうこの世にいない悪役の名優たちを「水戸黄門」の画面に見つけ、ギシギシと音がする座り心地の悪い椅子や、大人の肩越しから見える大川橋蔵の顔や、映画館帰りのヒンヤリとした夜の空気をありありと思い出す。


 幼年期は東映の時代劇、青春期は東映の任侠映画で過ごした。トイレの上に金網が張ってあった池袋の映画館。「緋牡丹お竜」五本立て、「唐獅子牡丹」五本立て、数々のやくざ映画を毎週土曜の夜通し見ていた。


 中年前期はウワの空、中年後期はメタルロックとインターネットの虜(とりこ)。いったいどういう人生なんだ、私の人生は(笑)。これから突入するであろう「前期高齢者」の世界。私をささえてくれるものは、さて、何だろうか?


家宝は寝ていても やってこない・・・ 2015年10月7日号

41文の6号文


 おじいちゃんが亡くなって十五年、おばあちゃんが亡くなって一年五ヶ月。


 一念発起、屋根裏の物置を片づけ始める。結婚以来、この屋根裏部屋に足を踏み入れたのは数えるほど。一階部分のどこの部屋の、どこの天井部分にこの物置が存在するのか、いまだにはっきり確認できていない。開けたことのない箪笥、長持ち、柳行李(やなぎごうり)、段ボール箱、衣装箱。おばあちゃんの葬儀の際、あわてて押し込んだおばあちゃんの日用品。古いものから新しいものまで、すべてが足の踏み場もなく雑然と、ホコリにまみれて取り散らかっている。物置専用のスリッパを履き、足の踏み場をさがして腕を組んで仁王立ち。ため息とともに、


 「さぁて、どこから手をつけるべきか‥‥、案外、すげぇお宝が眠っているかも、くくく‥‥」


 自分自身を奮いたたせ、行動を開始するのだ。
 六十ワットの裸電球がぶら下がった和室らしきひと部屋。遠い過去には下宿人、五十年前には連れ合いの部屋。裸電球の明かりが届かぬ押し入れの暗がりには、いったい何がひそんでいるのやら。


 その隣は板敷きの箪笥部屋。箪笥部屋といっても、古い黒光りのする立派な土蔵などを想像してはいけない。ときおりユラユラとまわる年代物の換気扇に、運悪く舞い込んだ年代物の枯葉があちこちに散る、ベニヤ板を張り付けただけの部屋。


 その奥、左側に二畳ほどの書庫。書庫といっても英国の重厚な本棚と革表紙の本が並ぶような書斎を想像してはいけない。板を渡しただけの棚には、未来永劫、決して開くことのない、あるいは今日まで開いた形跡のない「日本思想体系」やら「国訳大蔵経」やらがこれまたホコリをかぶって並んでいる。おまけに、お齊(とき)用の大きな鍋・釜・ザル・洗い桶等々、書庫とは縁もゆかりもない品々多数。


 和紙に墨の書類の数々。三代前、明治十七年の「一、金・貳拾圓」の借用証書。これはちゃんと返したのだろうかと、いささか気になる。段ボールにぎっしりのあちこちほつれた白足袋。柳行李ぎっしりのすり切れた法衣類。いつの日か繕っておこうとしたのだろう。箪笥ひと棹(さお)にぎっしりの欠けた黒椀。立派な桐箱に墨痕あざやかに「證明寺蔵」。ワクワクと開けてみると、ご本山からの皿。割れた破片を接着剤でくっつけてある。嗚呼。


 残念ながら「お宝」はまったく出てこない。それどころか、ここに住んでいた人たちがいかに貧しい生活を送っていたか、そんな証しばかりがあふれ出てくる。


 廃棄すべきか、保存しておくべきか、おじいちゃんが少年期に着たであろう絣の着物、おばあちゃんが娘時代に着たであろうロマンあふれる単衣。いちいち悩み、仕事はまったくはかどらない。予定は大幅に遅れ「この春には」から「今度の冬まで」に変更を余儀なくされた。


 ホコリにまみれながら思う。いろんなものをそぎ落として生きてゆきたいと。そしたら最後の最後に残るものはいったい何だろう? それを知るのはちょっとこわい。

輪廻転生サバイバル 2015年9月28日号

41文の5号文


「死んだらどうなるの?」
と、よく聞かれる。「わからない」としか答えようがない。死んでから戻ってきた人はひとりもいないので。


 一時期、「臨死体験」ということが話題になった。きれいなお花畑があって、そこを歩いていたら、向こうから自分の名前を呼ぶ声がする。そちらに行こうとしていたら、後ろから「行くな!」といわれ振り向いた瞬間、意識が戻った、という話。まあ、これも完全に死んでしまって、お墓の中に入っている本人の話ではない。だから、実際に死んでからどうなるのか、死んだ人にしかわからない。


 昔、孔子のお弟子さんが師匠に聞いたそうだ。
「人は死んだらどうなるのでしょうか?」
孔子は答えた。
「我、いまだ生を知らん。いずくんぞ死を知らんや」
(バカタレ、私はいまだに「生きること」の意味すら知らずにいるのに、死んだあとのことなどわかるはずがないわい)あ、バカタレは余計か(笑)。


 「霊魂」はあるのでしょうか?ともよく聞かれる。「仏教」というと「死後の世界」や「前世」「霊魂」「輪廻転生(りんねてんしょう)」等のイメージに直結するらしい。ちなみに「輪廻」という言葉をインターネットで検索してみると、出るわ、出るわ‥。「輪廻転生サバイバル」「まどろみの輪廻」「輪廻の砂時計」「輪廻眼」「血の輪廻」等々、アニメやアニメソング、漫画のタイトルに多いようだ。確かに「輪廻」なんていう言葉はカッコいい。不屈の闘志をもって死をも怖れぬ主人公にふさわしいかもしれない。


 ところが、仏教でいう「輪廻」は死後に生まれ変わって、他のものになるということではない。地獄・餓鬼・畜生・人間‥‥、六道をさまよって生きている人間の姿そのものをさす。全然カッコよくないのだ。残念ながらお釈迦さんは「死後の世界」とか「前世」「霊魂」には一切言及していない。
 仏教は「死後の世界」を専門に扱っていると誤解されているようだが、むしろ、いま現在、生きている人間専門なのだ。


 二〇〇六年に興福寺の阿修羅像が東京国立博物館で展示された。生(なま)阿修羅像が見られるとあって、来場者は百六十万人を超えたという。以来、「仏像ブーム」なのだそうだ。若い女性がイケメン仏像をキャーキャーいっても、仏教そのものとは何の関わりも持たない。仏像だって、一応信仰の対象になっていたことを少しは考えてほしいわ。


 漫画家の赤塚不二夫がいっていた。
「まわりの人の中で、自分が一番バカだと思ってりゃいいんですよ。自分が一番エライと思っている人には誰もなにもいわない。バカだと思っていれば、人のいうことが、ぜーんぶ素直に入ってくる。自分が一番バカだと思って生きていりゃいいんですよ」
「死後の世界」も「輪廻転生」も「霊魂」も吹き飛ばす人生の奥義、仏教の神髄がここにある。


秋ですね。切ねぇ… 2015年9月21日号

41文の4号文


 最近、母のことを思う。
母がなくなって三年,心のなかでつぶやくことが多くなった。

「さあて,ばあちゃん,どうしたらいいのかな?」

 何か困ったことがおきたとき,迷うようなことがあったとき,心のなかの母にむかって呼びかける。無論、答えは返ってこなし、それでいいのだと思う。母に呼びかけるのは,なにか決断するときの、気持ちを引き立てるためのかけ声のようだから。



 黄昏(たそがれ)どきはなぜかさびしい。
昔からそうだった。幼い頃,学校の帰りが遅くなり,薄暗くなった道を歩きながら,人恋しくてしかたがなかった。それはあきらかに母が,かあさんが恋しかった。家の灯(あか)りがみえてくると、思わず駆け足になり、玄関にはいると「ただいま」よりも「かあさん、どこ?」と呼んだ。

 学生時代,東京で一人暮らしをしているときもそうだった。電車から吐き出された人たちの流れにのって、暮れてゆく商店街を歩くとき,なにかが恋しかった。でも,幼いときと違って,母だけが恋しいのではない。父も母も,祖父もいる盛岡の家が恋しかったような気がする。今頃,夕食のしたくで台所のガラス窓はくもっているんだろうな,今夜はなにをつくっているんだろう、そんなことをぼんやりと思いつつ,ひとりの部屋に帰っていった。



 いまでもさびしい。
いつもあわただしく過ごす夕暮れどき,なにかの拍子にポカリと穴があく。ああ,台所にさし込む夕陽がきれいとか,群れをなしてカラスが山へ帰ってゆくのを眺めながら,ひい,ふう,みい,よ,カラスの数をかぞえはじめ,ばからしくなって途中でやめたときとか。漠然としたさびしさにおそわれ,あたりを見渡す。あたりを見渡して私はなにをさがしているのか? なにかが恋しい。なにが恋しいのかわからぬままに、日が暮れる。



 家にいても「家」が恋しい。
家族が恋しいのではない。東京にいる息子たちが帰省し,皆そろって食卓を囲んでいるときでも、心のかたすみでちがう「家」を恋しがっている。遠い記憶のかなたの家なのか。まだ若い元気な父と母がいて,重しのようにどっしりとした祖父がいて,にぎやかにはしゃぎあう兄妹たちのいた,煤けた電球のかさがぶら下がるあの家なのか。それとも、あの家で暮らしていた小さな私,憂いや悲しみよりも、毎日を生きる喜びのほうが勝っていた自分自身が恋しいのか。



 母ではないのかもしれない。
私が心のなかで呼びかけるのは、限りなく母に似た,母の姿を借りた「なにか」なのかもしれない。小さな私がもっていた生きることの喜び、そしてそれをささえた母の笑顔,古い家、それらが混ざりあった私のいのちの根っこ。

「ばあちゃん,どうする?」

私のシワシワになったいのちは、家の灯りをもとめるように、私の存在のみなもとを恋しがり,呼びつづけている。

デジババァ 2015年9月15日号

41文の3号文


 アーケードの商店街にある小さな洋品店を出たとき、雨が降りだした。ザァーっと音をたてて降りだした。はんぱな降り方ではない。「滝のような」とか、「バケツをひっくり返したような」とか、あるいは「天が裂けた」とかいうような表現が使われる降り方なのだ。


 傘は持っていたし、アーケードの屋根もあるので歩きはじめたのだが、前に進めない。道路にたたきつけられた雨はしぶきになってはね返り、歩道はたちまち水浸しになる。店とアーケードのすき間からは、滝のように雨が流れ落ちる。どこの店でも、店員さんたちがあわてふためいて歩道に並べていた商品を片づける。私は歩くのをやめ、店の入り口で雨宿りをした。アーケードの商店街なのに、傘をさしながら。


 いつだったか、雨がこちらに向かってくるのをみたことがある。郊外の小さなダム湖だった。こちらの岸は陽ざしが降りそそぎ、さほど遠くない向こう岸の空は雲がかかっていた。突然、向こう岸が灰色の紗におおわれた。ゆらゆらと灰色のカーテンがゆれているようだ。


 そして、ぽたぽたと、向こう岸の湖面に雨つぶが落ちはじめる。雨つぶは湖面を波立て、一斉にこちらへ向かってくる。まるで幾千、幾万の雨つぶたちが全力疾走をしているようだ。


 あっ、雨……、思う間もなく、雨はこちら側に到着し、手や顔に冷たい水滴を感じ、すぐに濡れてゆく。この間、わずかに数十秒だった。雨つぶの全力疾走はどこまで行ったのか? 後ろをふり向いてみたが、そこいら辺じゅう雨だらけ、雨つぶの後ろ姿さえみえなかった。


 アーケードも傘も、ちっとも役にたたない。サンダルの素足はすでにグショグショだった。ジーンズを膝まで濡らした若いカップルは、かえって気持ちよさそうに傘もささず歩いてゆく。アーケードが途切れる交差点は、青信号でも誰一人渡らない。ほんの数メートルの距離だが、この雨の中を走って渡ったとしても、間違いなくシンまで濡れる。それをしてみたい気もするが、心身ともにそう若くはない。交差点付近のアーケードには傘をさした人が増える。ある人は空をみ、ある人は地面をみる。


 若い男の子が携帯電話をかけている。雨音にかき消されそうな小さな声で話している。少し暗い顔をして。私は雨をみていた。こんなひどい土砂降りでも、携帯電話の電波は雨をぬって飛んでゆくのだろうか? 彼の電話は雨の中を相手まで飛び、相手から雨の中を飛んでくる。きっと、湿気をおびて濡れているのかもしれない。私も携帯電話を取り出して、どこかへ電話をしたくなった。相手の声が湿っているか、確かめてみたい気がする。でも、こんな雨の日は、きっと明るい話はできないかもしれない。


 今年の夏は途中から雨ばかり。「小雨(こさめ)」「霧雨(きりさめ)」「小糠雨(こぬかあめ)」「豪雨」「雷雨」「暴風雨」、あらゆる雨が降った。携帯電話で話をする若者たちも、別れ話が多かったかもしれない。「涙雨」のせいで。


夢の片鱗 2015年9月7日号

41文の2号文


 インターネット上の某巨大掲示板に私の大好きな書き込みがある。

 前を歩いていた小学生二人、突然片方が立ち止まり、

  「あ! おれ、学校に忘れてきた!」

  「え? 何を?」

  「将来の夢!」(たぶん宿題の作文か何かの題名)


と言って戻っていったのを見て、ちょうどその後ろを歩いていたおじさん二人が、


  「おれも忘れてきた気がするなぁ〜」

  「気づいても取りに戻れないだろう〜」


とか言ってて吹きそうだった。


 ここ何回か、甥の長男を子守して、ニワカ婆ちゃんをしていた。小さな男の子を相手にしていると、ああ、そういえば・・・、すっかり忘れて果てていた三十年前、小さな息子たちとの日常を思い出す。


 夢中になって遊んでいる子供の髪の汗のにおい。大人の靴をはいて玄関の戸を開けようとするときのいたずらっぽい目。墓参用の桶とヒシャクでビショビショになって水遊び。服を着替えさせようと抱き上げるが、絶対離そうとしないヒシャク。おいしい? おいしいぃ! すごいね! すごぉいぃ! オウム返しの可愛い言葉たち・・・。


 今の子も昔の子も子供は皆、おんなじだ。幼かった二人の息子、まだ若かった私。いや、まったく、涙、ウルッときてしまいそう。


 あのころは、自分自身の「夢」などなくて、幼い子供達を通して「将来の夢」をみていた。ちょっとばかり絵がうまいと画家、ちょっと理屈をこねると哲学者、おもちゃのピアノを弾く手つきがちょっとうまいと音楽家、典型的な「末は博士か大臣か」という親バカ。


 それが年を経るごとに、期待と可能性はひとつずつ、ひとつずつ、着実にそぎ落とされ、トドのつまりは、元気でいれば、ま、いいっか。ところが、最近、父親と同じ道。ハラのでっぱりをなでながら、とみにオヤジ化してきた二人の息子たちは「あっっっ、腰が痛てぇ」とか「俺の持病は椎間板ヘルニア」とか、トドのつまりであるところの「元気」すらあやしくなってきた今日このごろ。


 この家族、夢を語るには歳を取りすぎた。私なぞは「将来の夢」どころか、夜眠っているときに夢すらみない。たまにみる夜明けのイヤな夢に少し気分が悪くなるぐらい。


 ちっとも売れないバンドマンの長男は、この酷暑のなか、西日本をまわるツァーに出かけた。さっぱり売れない地方タレントの次男はこの炎暑のなか、仕事をくださいと、ディレクターにゴマをする。


 夢の片鱗、まだどこかに残っているのか?


 某巨大掲示板の書き込み。

……「やる気」をなくしてしまったんだが、交番に届け出るべきか?誰か拾ったら連絡をくれ
……今まで来た道をもう一度探してみろよ




お盆の由来 2015年9月1日号

41文の1号文


 お盆が終わった…。
あとは秋彼岸、報恩講、寒さにふるえる年の暮れ、そして今年も過ぎてゆく。
 何十回と過ごして来たお盆だが、その意味・起源がイマイチわかっていない。以下、「浄土宗」のホームページからの転載。

 …お盆は昔から日本人の心に深く根づいた風習・行事で、古代インド語ウランバナの音訳、「逆さまに吊されるような苦しみ」を除く行事です。その由来は『盂蘭盆経(うらぼんぎょう)』というお経によっています。それによりますと、お釈迦さまの十大弟子で「神通第一」といわれる目連(もくれん)さまが、ある日、亡くなった自分の母親のことを神通力を使って見ていると、なんと母親は餓鬼の世界に落ちて、苦しみあえいでいました。びっくりした目連さまは、お釈迦さまのところへとんで行き、どうしたらよいかを相談しました。するとお釈迦さまは、「九十日間の雨期の修行を終えた僧たちが七月十五日に集まって反省会を行うから、その人たちにごちそうをして、心から供養しなさい」とおっしゃり、そのとおりにすると、目連さまの母親は飢餓の苦しみから救われました。…



 はぁ、なるほど…。目連尊者のお母さんは餓鬼道に落ちてたんだ。この母親は生前、息子可愛さのあまり、息子にだけたくさんの食べ物を与え、同じように托鉢をしている他の僧侶をまったく無視していた。その罪によって餓鬼道に落ちたらしい。これだと、世の母親はほとんど餓鬼道にまっさかさまだ。
ちなみに「盆踊り」というのは、目連によって餓鬼道から救われた母親が、歓喜の舞を踊ったところからきているとか。へぇ…。


 意外だと思われるかもしれないが、釈迦が説いた経典には「霊魂」とか「前世」といった言葉は一切ない。仏教にはそういう概念はなかったらしい。それが、インドの土着信仰と結びつき、中国では道教や儒教と混ぜ合わされて、日本に渡って来た。この『盂蘭盆経』は釈迦が説いたものではなく、「孝」の思想を取りいれて中国でつくられた「偽経(ぎきょう)」といわれている。
 釈迦が説いていないのなら…と、餓鬼道確定だった私はチョットばかり安心した次第。


 真宗は「人みな仏となって浄土に生まれる」というコンセプトなので、霊魂が「あの世」と「この世」を行ったり来たりすることはない。まして、ご先祖様が餓鬼道に落ちているなどと想定することなど、サラサラない。ゆえに「お盆」という行事すら行わない真宗の寺もある。


 でも、一年に一度ぐらい墓前に手を合わせ、このご先祖様の誰か一人欠けても、今の自分はいないんだと、来し方を振り返りシミジミするのもいいものだ。


 私のお盆は、一年に一度顔を合わせる人達と、白髪が増えたとか、シワが増えたとか、孫が増えたとか、同じ時代を生き抜き、歳を取ってゆくことを確認する大事な四日間だ。
 また来年お盆にお会いしましょう。生きてたならば。



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